PCっていったいなに? 人体に譬えてみよう!

PC

PCにあまり多く触れる機会のない方々や、自作PCの経験が少ない人にとって、ときに「PCとはいったいなんなのか?」という疑問は大きな障壁となります。
理解が難しいことやその存在がハッキリとわからないことから、明確な理由がなくとも忌避したくなることもあるでしょう。

人は昔から不可解なものに不安や恐怖を感じてきました。それは科学に対してもそうでしょうし、個人に対しても理解ができない人とは親しく接することは難しいでしょう。
また哲学としても、「〇〇とはなにか?」という疑問は常に顕在化しています。「人間とはなにか?」「世界とはなにか?」と問うのはとても単純で簡単なのですが、それに答えを出すことは実は究極的な知識であり、おいそれと簡単に向き合うことはできません。

ではPCはどうでしょうか? 人は神によってつくられたと説明する宗教がありますが、PCは人間がつくった代物なのでまだ説明が容易です。
しかし「PCはPCです」という答えも味気ないので、このシリーズではPCを別のものに譬えてみようという試行をしてみます。
今回は特に、CPUが脳に譬えられることが多いので、それにあやかって基本的なパーツを同様に「人体」になぞらえてみましょう。

このエントリのポイント

  • PCを人体に譬えてみると、ちょっと気持ち悪い。
  • 比喩には限界がある
  • PCは「人間の代わりに考えてもらう」ために設計されている

PCを人体に譬えてみると……

CPUを説明するときの定型句として「CPUは脳」という言葉があります。家電量販店でPCに詳しくないお客さんが店員さんに「CPUってナンですか?」と聞けば、多くの店員さんが「CPUは人間でいえば脳です」と答えることでしょう。これは非常にわかりやすいので、この説明を筆者も支持しています。

しかしCPUが脳に譬えられることが多いのに対して、他のパーツはさほど脳に類する人体の器官に譬えられることがほとんどありません。それはなぜなのでしょうか?
その謎を理解するべく、今回はPCの基本的なパーツをすべて人体の器官に譬えてみましょう。

CPUは脳

まずCPUは人体では「脳」によく譬えられます。様々な計算をし、結果を算出するからです。
CPUという名称は、「Central Processing Unit」の頭文字から来ています。この場合の「process(プロセス)」はコンピュータが処理する「命令」を意味します。つまりCPUとは「中央で命令を処理するパーツ」ということです。

人間でいえば、まさに脳が様々なデータを処理する器官といえます。目や耳から得た情報は脳に伝えられ、脳が情報を処理し、それが必要とあれば出力されます。出力は手に伝えられれば文や絵を「書く(描く)」ことができますし、また口に伝えられれば「会話」や「発言」として出力されます。
いずれにせよ出力がされるかされないかは別として、CPUも脳も「処理をする」という部分で一致しています。

マザーボードは神経

続いてマザーボードは、神経に譬えることができます。それというのもPCにおいて、各パーツは多くがマザーボードに接続されるからです。CPU・グラフィックボード・メモリなどは直接的に、ストレージや電源ユニットはケーブルを介して間接的に接続することになります。

実質的にはケーブルが末端への神経と呼ぶことができるかもしれません。その場合は、特にマザーボードは個別で「中枢神経」と見なすことができます。

グラフィックボードは絵を描く能力

グラフィックボードは、この譬えでは一番ややこしい箇所になります。それというのもグラフィックボードは映像を処理するパーツなのですが、これに該当する器官が人間には個別で備わっていないからです。
もしグラフィックボードの能力を人間の能力に譬えるならば、それは「絵を描く能力」といえるでしょう

グラフィックボードは処理した映像をモニターに映します。これに対応する人間の能力は、キャンバスなどに絵を描く能力です。
グラフィックボードとモニターの根本的な目的は、「他人に映像を見せる」という行為です。我々はPCを使用して、モニターから情報を得ることで、動画を見たりゲームをプレイしたりするわけです。

グラボは「目」ではない

グラフィックボードを人体に譬えるとき、「目」や視覚に関する器官に譬えようとしたなら、それは誤りです。なぜならば目や視覚は映像を「外部から入力」する器官であり、グラフィックボードは映像を処理して「外部に出力」するパーツだからです。
目は「自分のために映像情報を得る器官」であり、グラフィックボード・モニターが「他人に映像を見せる」という機能をもっているのと異なります。

もし人間の目がグラフィックボードのような機能を備えるなら、目が映写機やプロジェクタのようになって映像を目から映写するような役割を果たすことになります

メモリは短期記憶

メモリはよく「作業台」に譬えられますが、人間に譬えるときはもっと率直に「記憶」、それも「短期記憶」に譬えることができます
メモリは容量があまり大きくありませんし忘れられるのも早いのですが、蓄えられている間はすぐに読み込むことができます。

なお筆者は記憶力がいいほうではなく、短期記憶に関してもすぐ忘れてしまい、キッチンに来てから「あれ、なにをしに来たんだっけ?」と考えてしまうようなタイプなので、この譬えになぞらえると「メモリの少ない人間」と見なすことができます。

ストレージは長期記憶

ストレージには現在HDDとSSDが多く使用されていますが、いずれにせよ記録媒体としては長期間保存することを前提としています。
細かく分類するなら、両者を比較するとHDDはSSDより読み込みが遅いかわりに多く保存できるためより長期的かつ大容量にデータを保存する目的として、SSDはHDDより読み込みが早く大容量にするコストが大きいので、SSDを中期記憶、HDDを長期記憶と見なすことができます

電源ユニットは口や消化器官

電源ユニットは、PCが正常に稼働するための電気(エネルギー)を確保・供給するためのパーツです。電源ユニットは人間でいえば、食べ物というエネルギーを確保・供給するための口や胃・腸などの消化・吸収を担う器官に譬えることができます

ノートPCでバッテリーを使用して、コンセントから直接電気を供給しなくても動かせるのは、人体で脂肪を溜めて長期的活動をできるようにしているのと似ています。

PCケースは体

PCケースは直接的には脳たるCPUや神経たるマザーボードに接続しません。PCケースは物理的に配置できるよう便宜的に使用される枠組みです。
つまりPCケースは人体でいうと「体」そのものだといえます。硬い材質で保護するという意味では、骨にも近いかもしれません。

実はPCのほとんどが「脳」

これまで「PCを人体に譬える」という観点から、PCの各パーツを見てきました。聡明な方は、違和感に気づいたかもしれません。
CPUは脳に譬えられますが、実質的にはメモリやストレージも記憶として脳の一部分であり、グラフィックボードも映像情報を処理するという意味で脳に該当します。あれもこれも「脳」になってしまうのです。

CPUは便宜的に脳に譬えられますが、他のパーツがあまり人体に譬えられないのは、意識的にか無意識的にかはわかりませんが、「無茶がある」ことに多くの人が気づいているからです。

PCは自律的に動かないので体がいらない

PCは自分から動くことはありません。そもそも自我というものがないのもありますが、人間の足にあたる移動を担うパーツがありません。この観点からすると、PCには手も要りません。握手も執筆もしなければ、なにかを運ぶこともありません。

人間の場合は自発的に動き、目でものを見、耳で音を聞き、鼻で匂いをかぎ、舌で味わい、肌で様々な感覚を得ます。こうしたインプットを、PCは自発的に行いません。
ではどのように行うのかといえば、人間がキーボードやマウスなどで入力してくれるのを待つのです。逆に考えると、人間がなにかを入力しなければPCが動くことは一切ないでしょう。

そもそもPCには人間にできない処理を代わってもらうのが目的であり、今のところ自我をもって人間のように動き回って勝手にいろんな情報を得ることが目的ではありません。設計からして人間のツールとして存在しているので、人間が入力しなければPCに存在意義はありません。

CPUとグラフィックボードは似ている

脳という観点では、特にCPUとグラフィックボードが似ています。それというのもグラフィックボードにはGPUというチップが組み込まれており、これが実質的に映像の演算処理をしています。
実際のところ、CPU自体に映像を処理する能力を代替させることもできます(Intel HD Graphicsなど)し、CPUとGPUを合体させたAPU(Accelerated Processing Unit)というAMD製品もあります。

CPUとグラフィックボードの違いを考えると、CPUはPC全体の計算をし、グラフィックボードのGPUは映像の計算をするという違いがあります。そのためCPUがないとPCは動作しません。しかしグラフィックボードがなくてもCPUなどで代替することができることがあるので、グラフィックボードがなくてもPCは動作します。

先ほど「グラフィックボードは目ではない」と説明しましたが、「CPUがないとPCが動かない」というのとグラフィックボードは似ています。
グラフィックボードがない状態で負荷の大きなゲームを起動しようとすると、起動しなかったりまともに動作しなかったりすることがあります。これは「CPUがないとPCが動かない」ように「グラフィックボードがないとゲームが動かない」というふうに捉えることができます。

これはCPUが脳の中枢であると見なせるので、脳がなければ人間に考える能力がなくなってしまうのと同様で、また表現をアウトプットするGPUならびにグラフィックボードがないというのは、人間でいうと口がないようなもので、会話などの特定での表現ができなくなったり難しくなったりしてしまうのです。

メモリとストレージも似ている

またメモリとストレージも記憶領域として非常に似ています。細かくは用途や性質が異なるのですが、どちらも「GB」などの共通単位が使用されているのも似ています。
メモリもストレージも「記憶装置」として、同じ区分に属します。

PC全体は「箱に入った脳」

このように見てみると、PCのパーツは大半が人間では「脳」に類するものであるとわかります
それを踏まえてPC全体を考えてみると、いわゆる五体のように手足がある人体というより、SFなどにあるような「保護ケースに入れられた脳」であると考えたほうが近いでしょう。

この考え方は一種わかりやすいものの、やはり一般的な説明として気持ちの悪いものでしょう。
しかしむしろ、PCとは機械として「考える能力」や「処理する能力」に特化させられ、人間の手足のように移動や動作を行う器官がなく、また目や耳のような外部情報を主体的に入力して得る器官もないのだとわかります。

PCを人体に譬えても「気持ち悪い」

各パーツの役割を人体に譬えてPC全体を見てみると、結論としては「保護ケースに入れられた脳」というやや気持ち悪い答えとなってしまいました。
PCを人体に譬えるのは、やや無理がある方法であるようです。

人間はなにかを人体に譬えるのが好きで、人間社会の仕組みをも人体に譬え、通貨を血液になぞらえたり、政府を脳になぞらえたりします。それもこれも我々が人間であるからこそ、自分の体と同様のものに譬えるとわかりやすいと考えるからなのでしょう。

PCは計算するために作られる

元々PCとは、機械として作られています。なんのために使用されるかといえば、人間には複雑であったり時間が長くかかったりしてしまう計算を手軽に代行してもらうためです。
人間において計算する器官といえば、当然「脳」です。
つまり設計からして、我々はPCに「脳」であることを求めているのです。

仕事でWordやExcelなどを使うとき、我々はPCに「ここはこうしたほうがいいですよ」「その処理のしかたは効率的ではありません」といったようなアドバイスを求めてはいません。
PCでネットブラウジングするとき、「そのサイトは不健全です」「無駄に時間を過ごすより知的情報を摂取したほうがためになりますよ」といった説教も求めていません。

ゲームをするとき、「あなたはエイムが下手ですね」「先程の作戦は論理的に優先順位が低いものでしたので負けてしまったのですよ」といった反省箇所を述べてもらうために利用しているわけでもありません。
現在までのところ、PCは「コミュニケーション相手」としては求められていないのです。基本的に使役するしもべとして利用されています。余計な機能は削ぎ落されているのです。

実質的にはそれがすべてではなく、初音ミクをはじめとするボーカロイドは電子的に音楽という芸術表現を行うために想像されましたし、「伺か(うかがか)」という仮想的に自我を表現したAIを作成する試みも続けられてきました。
しかしそれはソフトウェアとして、自我をもたせられれば楽しいなというくらいのものでしょう。ハードウェアとしてPCは、歩き回って人間の世話をするというような設計をされてはいません。
ASIMOやPepperのような外観から二足歩行をする人型のロボットとは、別の用途を期待して設計されているのです。

気持ちのいい存在であるかは問われていない

SFではアイザック・アシモフを筆頭として、機械が自我をもち人間と共存する、もしくは敵対する様がドラマとして描かれてきました。
実際のところ、現代でもAIが人間の仕事を奪うのではないかという不安や、いずれシンギュラリティというAIが人間の知能を上回る時期が訪れ反逆するのではないかという恐怖感が、世間でもニュースになることがあります。

シンギュラリティが発生するか否か、AIが自我をもちうるか否かはここでは論じませんが、少なくともPCは「自我をもちうるAI」として設計されてはいません。計算する代替的「脳」としてのみ設計されているので、その代替的脳を人体と照らし合わせて考えてみたとき、それが歪に感じられてもなんらおかしくありません。

SF作品では「保護ケースに入れられた脳」というモチーフは、別段新しいものではありません。少なくともアニメ映画「ルパン三世(ルパンVS複製人間)」では悪役のマモーの姿が、同様の脳として描かれています。
ファミコン用ゲーム「ゴルゴ13 第一章神々の黄昏」でも、黒幕としてアドルフ・ヒトラーが脳のみの姿で生きているというシーンが描かれています。

もちろんこうしたモチーフは「気持ちが悪い」からこそアンチテーゼとして描かれているのでしょう。
しかし少なくとも現状では、PCという存在に自我は確認されておらず、そもそも自我のない計算処理の道具として設計されています。
これに対して同様に「気持ち悪い」と感じるか、「便利そうだ」と感じるかは人それぞれでしょう。

少なくとも現在のところ、PCはそういった自我をもったAIを目指して設計されてはいませんし、それに反して自我をもつような兆候もありません。
PCを人体に譬えてみて気持ち悪くならないようにも設計されていません。なぜなら荒唐無稽だからです。そんな些細なデメリットを気にするより、もっと有能なツールとしてのPCを作成できるようになるほうが人間として興味が強く、またビジネスとしても絶大な意義があるのです。

比喩の目的とは?

比喩はわかりにくいものをわかりやすく説明するのに用いられる修辞技法です。修辞技法はレトリックとも呼ばれ、スピーチや文章表現の幅を広げる技術です。
修辞技法には比喩として、直喩や暗喩、提喩、寓喩などいろいろな種類がありますが、こうした難しい名称は学術的なものに過ぎず、実際には我々は日常的に修辞技法を用いています。

「猫みたいな性格」というのは「みたい」という言葉を用いた直喩(ハッキリと比喩だと明示する比喩表現)ですし、「高嶺の花」とは実際には花ではないけれど届かないことの譬えとして表現されている暗喩(ハッキリと比喩だと明示しない比喩表現)です。

こうした譬えは説明をわかりやすくするのに便利なのですが、実際には「似せているだけで別物」に過ぎません。猫みたいな性格の人は、猫ではなく人です。高嶺の花の女性は、花ではなく人間の女性です。誰にでもわかることです。
譬えには限界があると誰もが薄々と気づいてはいますが、便利で楽しいので現在でも行われているのです。

比喩は「正しいか」より「わかりやすいか」

比喩を使う理由というのは、譬えられるそれ自体を「それそのもの」として理解するのが難しい、もしくは説明するのが難しいときに、物事を多角的に見るために利用されます。今回でいうと、PCという存在を「ただPCそのもの」として理解・説明が困難なときがある、という理由があります。

その点、我々は人間ですから自分のことについては関心があり、自らの体についても知識をもっています。昔から物事は人体に譬えられることがよくあり、今でも通貨(お金)は血流に譬えられますし、政府が脳に譬えられることもあります。

比喩は試してみないとわからない

また比喩という行為は、実際に試してみないとその結果がわからない行為でもあります。
たとえば友達同士で「動物に譬えると、みんなはどんな動物になる?」と考えてみると、意外とそれぞれの人となりがわかることがあります。
猫や犬、ライオンやナマケモノなど譬えやすい動物がいる一方で、なかなか動物に譬えにくい人がいることもあるでしょう。

それはその人を「動物に譬えるのが難しい」というだけで、その人自身に問題はありません。また比喩という方法自体が一律に間違っていた・不便であるということでもなく、「人を動物に譬える」というテーマに限界があるということです。個々人をすべて動物に譬え、まったく不満なく誰もが納得できるような結果を得るというのが非現実的だというだけのことです。

しかしこうした結論も、いわば試してみないとわかりません。基本的にはどんな比喩にも限界はあります。人間を動物に譬える例でいうと、そもそも人は猫ではありませんし、犬でもありませんし、ライオンやナマケモノでもありません。我々はそもそもホモ・サピエンスという動物なのですから、それを別の動物になぞらえることに限界があることは当然です。

そうした限界があることは当然でありながら、比喩というのは理解を深めたり説明を容易にしたり、また単に比喩をすること自体が楽しいことなので、我々は比喩に頼るのです。

譬えとしては失敗

しかし実質的に、今回の譬えが不適切であったという点については、試してみた筆者も認めざるをえない点ではあります。
筆者が現在この文章を執筆しているPCも、いわば保護ケースに入れられた脳であると想像してみると、やや気持ち悪いと感じてしまいます。

総合的に考えると、今回の比喩による試みは失敗だといえます。理由は「気持ち悪い」からです。
これは根本的な比喩という表現においての失敗とはいえません。比喩としては「気持ち悪かろうが譬えとして成立していれば問題はない」からです。

しかし今回の比喩の目的は、単に「PCを人体に譬えてみる」という点で比喩としていくらか正確な結論が得られればいいというだけではなく、それが世間に受け入れられやすいかどうかを考えるのも、ひとつの目的だといえます。その観点からは、「気持ち悪いからもう触らない」というような決断を与える印象を植えつけてしまったなら、失敗といえます。

PCとは道具

PCの本質は道具です。人間が使役するツールです。前述したように人間を世話するAIとして設計されてはいません。
基本的に道具に善悪はありません使う人間に善悪があるだけです

ノーベル賞で有名なアルフレッド・ノーベルはダイナマイトを発明したことでも知られていますが、我々人間にダイナマイトのような兵器を制御して戦争を起こさない確固たる信念があれば、ダイナマイトが発明されてもなんら問題はなかったはずです。

またWinnyなどのファイル共有ソフトで悪い印象をもたれているP2Pという通信技術も、本質的には単なる方法論のひとつに過ぎず、方法としての善悪はありません。もちろん違法ダウンロードを行った場合は刑罰のおそれがあるのですが、それは「技術を悪用する人間がいる」というだけのことなのです。

それと同様にPCはただの道具です。それを人々のために使用するのも悪用するのも、それを使う個人の意識次第です。
現在のPCに自我は確認されていませんし、そもそも確認できるものなのかもハッキリとはしません。それは自我の定義が難しいという理由もあります。

比喩を試さないと気づかないこともある

今回の比喩は失敗として終わりましたが、そもそもこの比喩を試してみなければ、PCを人体に譬えると気持ち悪い姿を想像することになってしまう、という結果は得られませんでした。
特に譬えとは「思考実験」のようなもので、それを実行することで起こる被害は実質的にはありません。今回のように不快な結果が得られたとしても、少し気持ち悪いと感じるだけです。それによって誰かが物理的に負傷したりすることはありません。

また我々がPCを使うときに「考えることを代理してもらっている」というのを再認識するのには、今回の譬えはとても有用でした。
現在PCというものは世界各地で使用されており、銀行や政府機関のような国家の中枢でも利用されています。
それに対して危機感を抱くのも、PCの機械としての偉大さを感じるのも、人それぞれであって然るべきです。

まとめ

  • PCは大部分が「」である。
  • PCは「計算」を代行してもらうための道具。
  • PCは人間が使用するもので、自律的に動きはしない。
  • 道具に善悪はなく、使う人間の手に委ねられる。
  • 比喩は失敗することもある……

さいごに

今回のPCを人体に譬えるという試みは、受け入れられやすい結果とはなりませんでした。しかしPCの側面のひとつであるという点ではなんらおかしな結果ではありませんでしたし、試みとしても「PCとはなんたるか」を考えるのには役立つものだったといえるかもしれません。 PCとはパーソナルコンピュータとして個人向けの機械を意味し、そうした設計が連綿と続けられているのであり、その行為を総じて俯瞰的に見るのにも役立つでしょう。
筆者においてもそうですし、PCをこれまで使い続けてきた方も、これから使おうと考えている方も、落ち着いて考えてみるのにはいいテーマだったのかもしれません。

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