「ミノニヨクシティ」#33【考察】住人たちは精神操作を行われている?!(後)【ネタバレ】

ゲーム考察
「ミノニヨクシティ」の考察です。住人たちが精神操作をされている可能性について考察していきます。

こんにちは、Caffeineです。
今回は前回に引き続き「ミノニヨクシティ」の住人たちが精神・記憶を操られている可能性について考察していきます!

前回のエントリ(【考察】精神操作・中編):
「ミノニヨクシティ」#32【考察】住人たちは精神操作を行われている?!(中)【ネタバレ】
「ミノニヨクシティ」の考察です。ミノニヨクシティの住人たちが精神操作をされている可能性について考察していきます。 こんにちは、Caffeineです。 前回に引き続き、「ミノニヨクシティ」の世界で行われているかもしれない「精神操作」につい...

死後の世界では精神操作されている?

前回までの内容で、精神・記憶操作がされているといかに悪逆になりえるかがご理解いただけたかと思います。今回はもう少し冷静に、その信憑性について考えておきましょう。

忘れてしまう世界

「はないちもんめ」で見ることができるジェミニという1人の少女が飾っている汚れた写真、というこの小さな情報から、精神操作が行われていると掘り下げて考えるのは馬鹿げているかもしれません。しかし生きている内に「自然と忘れてしまう」という記憶力の問題ではなく、なんらかの力で「強制的に忘れさせられてしまう」のであれば、そのシステムは悪辣だという他ないでしょう。

記憶操作の能力を大きく見積もれば、他の住人も生前のことを「思い出していると勘違いしているだけ」で「実際には改竄された記憶を植えつけられている」のかもしれないと邪推できます。そうだとしたら、これほど愚かしく悲しい存在はありません。

その状況で穏やかに笑っていれば、その笑み自体が嘘になるからです。むしろ状況が悲惨であればあるほど、それに気づかず笑っているのが、より愚かしくなってしまうのです。

ときに考察は「馬鹿馬鹿しく」なる

さて、ここまで「神」だのなんだのと考えてきましたが、少し馬鹿馬鹿しく感じてきている方もいらっしゃるかもしれません。「ゲーム内で出てきてない存在までもちだしてナニ言ってんだ」と思われるかもしれません。

仰る通りです。深掘りや考察において胡散臭くなっていく要因は、そこにあるといっていいでしょう。ゲームに限らず、アニメや小説などでも、考察するときは深く考えすぎるとワケがわからなくなっていくのです。

それに対する、ひとつの答えを提示しましょう。
「神」であるとかサトリ・ミトリの能力や責任がどうとかというのは「作者の設定のつけ方」への評価に転じさせることができるのです。

サトリ・ミトリの統治能力・政治力が甘いというのは、どれもゲームとしての設定がゆるいと転換することができます。この「ミノニヨクシティ」のストーリーの根幹は「自覚してはいけない」という言葉に表れているように、「死後 記憶を失う」という点です。そして安穏として暮らしているように見えるミノニヨクシティの住人たちも、実はすべて死者であるという事実が根幹です。

本作の魅力は、最初に受けるのんびりとしたゲームの印象がまやかしであり、実はみんな死んだ人たちなのだと気づく「ギャップ」にあります。そのため住人たちが死者でありその裏を理解していくこの「考察」のように理解していくこと自体が楽しみなのです。

その点でいうと「死後 記憶を失う」というのは前提なのです。RPGでの「世界の危機」のようなものです。物語をつくる上で、こうした基礎となりうる前提を掘り下げて設定しておくのは大事なのですが、とても苦労する点です。

『裏の裏』の裏

物語で伏線を張るなどするというのは、「裏の裏」をつくりあげて読者を惹きつけるという手法に近いといえます。「裏」くらいだと読者に予想されうるのですが、「裏の裏」になると予想する人が少なくなります。たとえば名探偵コナンでいうと、「蘭は『コナン=新一』に気づいてる?」というのが裏で、「気づいていてもいなくても蘭はコナンも新一も大事にする」というのが裏の裏です。

今回の「死後の世界の統治」について考えるのは、いわば「『裏の裏』の裏」について考察していくようなものです。ここまで考えて物語をつくっている作品は多くありませんし、そのためここまで考察してみても無駄になることが多いので、考察する人も多くありません。

しかしこの「『裏の裏』の裏」まで考えられている作品は、とてもおもしろくなることがあります。考察することを「深掘りする」ということがありますが、どんどん深くなっていくので考察する楽しさが増すのです。考察の深さがありそうに感じられるのが、エヴァンゲリオンなどの強みです(実際にどれほどの答えが出るのかは別として)。

そのため、ここまで考察することは楽しいだけでなく一種の「作者への挑戦」にもなります。ゲームであればプレイヤーは常に、ゲームがどれほど深いのかを探っています。マンガであれば作者は読者の探りを超えようとしてきます。

そこまで裏がなくてもしかたない

しかし世のなかに数多く作品があるなかでたとえ「『裏の裏』の裏」まで練られていない作品があっても別に落胆することはありません。物語の楽しさは、この「裏がどれくらいあるか」だけではないからです。

たとえば先日KFCが無料の恋愛ノベルゲームを発表し、私もプレイしました。実のところ、私はあまり感銘を受けませんでした。
それは「KFCが恋愛ゲームを世に発表した!」という驚き以上の「裏」がなかったからです。しかし無料ですし、ゲームとして本気を出すことより広告として利用することが目的でしょうから、それくらいであっても問題はあまりないのでしょう。

そうした観点で見ていくと、本作「ミノニヨクシティ」も「フリーゲームだし しかたない」と考えることは容易です。むしろ「裏の裏」まで練られていたことに驚くべきでしょう。

サトリ・ミトリが無能に見えてくる

ただし考察する上で、「『裏の裏』の裏」まで深めていくと、本作ではサトリ・ミトリの統治能力に疑問が湧くものとなっています。作者が本当はサトリ・ミトリを万能にしたかったのなら失敗ですが、別にそんな意図がなければサトリ・ミトリが統治能力に乏しくても問題はありません。

ただこうして考察している私からすると、サトリ・ミトリが「ふんぞりかえっているだけ」のように見えてしまうのです。それに加えて凶を処罰しているので、その資格があるのかと疑わしく感じてしまうのです。もっといえば、イザナイがああなってしまったのはすべてサトリ・ミトリのせいなのではないか、と疑ってしまうのです。

次のエントリ

次回のエントリでは、箱庭自体やミノニヨクシティ自体について考察を広げていきましょう。

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