「ミノニヨクシティ」#39【考察】私たちのこの世界は本当に「この世」なのか?(後)【ネタバレ】

ゲーム考察
「ミノニヨクシティ」の考察です。私たちは本当に自分たちの世界を自覚できているのでしょうか?

こんにちは、Caffeineです。
「ミノニヨクシティ」をプレイすることで、私たちはどんな問いを受けているのでしょうか? 一緒に考えていきましょう!

前回のエントリ(【考察】この世は本当にこの世? 中編):
「ミノニヨクシティ」#38【考察】私たちのこの世界は本当に「この世」なのか?(中)【ネタバレ】
「ミノニヨクシティ」の考察です。この世界は本当に私たちが考えているような世界なのでしょうか? こんにちは、Caffeineです。 前回に引き続き、「ミノニヨクシティ」の内容を踏まえた上で私たちプレイヤーの生きる世界について考えを巡らせて...

この世は本当にこの世か?

前回はノーマルエンドのルートでの情報を交えながら考察をしてきました。今回はこのゲーム「ミノニヨクシティ」をプレイすることで、本作からプレイヤーが受けるであろう問いかけについて考察をしていきます。

プレイヤーへの問いかけ

本作はゲーム内の世界、特に主人公ピギュラが住む場所が死後の世界であるということでした。「一見するとちょっとオカシなだけの生者の世界」だと感じられるものが、実のところ「死者たちの世界」だったというフェイクは、ゲーム内だけでなく私たちの世界にも適用できる考え方です。

つまり「今私たちが生きているこの世界は、本当に『この世』ですか?」というものです。「本当は『あの世』ではないのですか?」という問いかけです。

私たちプレイヤーは「生きている」か?

この疑問には、実質的に答えがありません。その理由は、私たちはまだ世界を正確に定義できていないからです。私たちは誰一人として、世界を正確に定義できていません。どれだけ頭がいい人であろうと、かつての歴史的偉人たちであっても、この世界を正確に定義できた人はいないのです。これを少し難しくいうと、「世界を正確に定義する」ということは実は「哲学の究極目標」であるということです。

私たちは日本に住んでいます。日本は地球の上にある小さな島国です。そして地球は太陽系のなかにある惑星の1つに過ぎません。そして太陽系はより巨大な銀河系の一部に過ぎません。そしてこの銀河系に類するものは、宇宙のなかにまだたくさんあるのです。私たちはそうした広い宇宙のなかにあるとても小さな星の1つにある小さな島に住む小さな生物なのです。

世界を正確に定義できていない

そうした小さな生物が、未熟な科学技術を駆使したところで、今のところ世界を明確に定義できるほど発達してはおらず、多くのことが謎のままです。その謎を少しでも減らして世界をより正確に定義するということが、人間のひとつの生きる目的としてあるのです。

そうした目標があるなかで、私たちは死後の世界というものがどんなものなのか、実際にあるのかすら理解できずにいます。「死んだことがないから死後の世界なんてわからない」という言葉で実質的に片づけることができますが、そもそも「死んだことがない」のかすら私たちにはわからないのです。魂の輪廻転生システムが実在するかは別として、たとえ前世があったとしても今の私たちは「死んだことがあるのか」すら理解できていません。

「私たちは死んだことがあるのか」、もしくは「死後の世界があるのか」、そして「死後の世界があるならどんなところか」という疑問に対して、誤りのない答えを用意するのは、今の科学や哲学では太刀打ちできません。しかしそうした実質的な問いとは別に、気楽な答えを用意することはできます。「世界がどうとか関係なく今の自分をしっかり生きるしかないよ」と。

今の私たちの生活が、ミノニヨクシティの住人のように死後の生活なのではないかと疑ったとして、それに答えを出すことはできません。しかしたとえそうだったとしても、そうでなかったとしても、ちゃんと生きるしかないことに変わりはありません。今の世界が生者の世界か死後の世界かわかったなら、まともに生きなくてもいい理由が生まれるのでしょうか? この世界がどうであるかにかかわらず、私たちはできることをするしかありません。

連続性

人間は「自分」というものを定義するときに、連続性をとても重視します。昨日まで「自分」として生きてきたのだから、今日も自分は自分であり、明日も自分は自分であるという形の「自分の連続」です。たとえ睡眠で意識が一時的に閉ざされても、次に目覚めたときには眠る前と同じ「自分」であるという連続性があるので、私たちは不安になりません。

たとえばマンガやアニメの「GANTZ」では、第1話で主人公たちが死に、敵である異星人たちと戦うために「再生(蘇生)」されます。GANTZの物語の中盤では、コピー&ペーストのように同一人物を複製することもできることがわかります。これは連続性が途切れている状態を示します。たとえば今の私たちが「2000年1月1日の自分」のコピーを目の前に生成できたとして、それを「今の自分と同一人物」だと見なすことができるでしょうか? 時間の隔たりが大きいので、おそらく無理でしょう。

もしくは亡くなった家族や大事な人を、今目の前に数年の時を経てコピーを目の前に生成できたとして、それを「同一人物」だと見なすことができるでしょうか。「死」として閉じられた生を再開させたのですから、オリジナルは死んでいて目の前にはコピーだと捉えることになるでしょう。

この「ミノニヨクシティ」という作品の問いかけは、この連続性が死によって絶たれ、さらに記憶が失われるため「自覚できていない」と絶たれ続けるという点にあります。ゲームやマンガ、アニメ、映画では記憶喪失はポピュラーなテーマです。それらはすべて「連続性を絶つ」という目的があると見なせます。

「自覚」しないと連続性は絶たれたまま

ゲーム内での「自覚」というものをこの連続性と一緒に考えてみると、自覚していない状態では連続性が絶たれている状態だと見なすことができます。ガルルは自覚していないので死後の「ガルル」と生前のガルルは繋がっていません。自覚していない住人は生前の名すらわからないのも、連続性が絶たれた断絶を如実に表しています。

この「死後、死者の世界の住人となる」というのは、今でいうところの「転生もの」の一種だと捉えることもできます。転生するものの、別に強くも弱くもないし、争乱のような大きな問題が死後の世界にあるわけでもないという点が違うくらいです。

「転生もの」で大事なのは、転生する前の記憶が残っていることです。そうでないと転生したところで、ただの転生先の世界の「一般人」になるだけで、「特別」にはなれません。これも連続性を意味します。

私たちプレイヤーは自覚すべきか?

さて、「ミノニヨクシティ」のゲーム外にいる私たちは、もしこの世界が死後の世界で、実は生前の記憶を失ったまま自覚していない住人だとすれば、自覚するべきなのでしょうか?

その「自覚」は本当? 証拠は?

これは非常に難しい問題です。なぜなら、「自覚したと信じていたとして、それが事実である確証がない」からです。端的にいうと、「私は自覚した! 前世のことを思い出した!」という人がいたとしたら、多くの人々は「頭のおかしい人だ」と見なすでしょう。

自覚するにしても、「この『自覚した』という感覚は本物なのだろうか?」と自分の感覚を疑ったり、「『自覚した』と告白しても多くの人々はそう単純に信用しないだろう」と広く状況を冷静に判断したり、「自分は『自覚した』が、他の人々を無闇に『自覚させよう』とするのは正しいのだろうか悪いのだろうか?」と自己中心的にならない明晰さ・視界の広さがないと難しいでしょう。

こうした考えが欠けると、いわゆる「カルト宗教」のように忌避されたり、自覚する準備がまだ整っていない人を無理に自覚させようとしたりして暴れさせかねません。少なくともゲーム内で描かれている「自覚」と、私たちの生きるこの世界で”あるかもしれない”「自覚」は詳細が異なります。私たちの世界には「自覚していない住人は人間の姿をしていない」というわかりやすい状況がないところからもわかります。

そもそも「私たちが今の世界に来る前にもう1つ別の世界があった」ことを示す証左がなく、また「『自覚する』というのが勘違いではない」という証明もかなり難しいという状況があります。そのためたとえ「私は自覚した」と思っても、何度も立ち止まる冷静さがないとむしろこの世界に混乱を招くでしょう。

とりあえずちゃんと生きよう

そのため「私たちプレイヤーは自覚するべきか?」と問われても、一概にはいえないのです。今の世界の定義が正確に達成できていないのに、前世だのなんだのいっても正確な答えが出るはずがないのです。

こうした事情から「私たちプレイヤーの生きるこの世界は本当に『この世』か?」という問いには、私は「今のところそうだと信じて生きる他ない」と答えます。この世界以外に、前世や異世界のような別の世界があったとしても、実際に行ってみるまであるかどうかすら私たちには判断できません。もし死んだり転生したりしてその世界に行くことになったら、元のこちらの世界に戻るべきかどうかも踏まえて、できるだけのことをするしかないのです。

次のエントリ

次回のエントリでは、「生前とはなんなのか?」について最後の考察をしていきます。

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