「ミノニヨクシティ」#11【考察】忙しいだけってのも考えものだよね…… ビル街にある和歌について考えよう【ネタバレ】

ゲーム考察
フリーゲーム「ミノニヨクシティ」の考察です。「ビル街」から輪廻道へ向かう鍵となる「和歌」を読み解いていきます。

こんにちは、Caffeineです。
引き続き「ミノニヨクシティ」の考察を続けていきましょう! 輪廻道へ向かう際に見ることになる「和歌」について、今回も見ていきます。

前回のエントリ(【考察】樹海クラブの和歌):
「ミノニヨクシティ」#10【考察】樹海で「くくる」のはナニ? 樹海クラブから輪廻道へ続く和歌【ネタバレ】
フリーゲーム「ミノニヨクシティ」の考察です。「樹海クラブの集落」から輪廻道へ向かう鍵となる「和歌」を読み解いていきます。 こんにちは、Caffeineです。 引き続き「ミノニヨクシティ」の考察を続けていきましょう! 輪廻道へ向かう際に見...

輪廻道へ続く和歌

なぜ輪廻道への鍵が和歌とその合言葉になっているのか、それはわかりません。ゲーム上では合言葉を聞くまで、合言葉の入力画面が表示されないようですので、実質的に合言葉を知らない限り輪廻道へ入ることはできません。つまり合言葉をプレイヤーが知っていても、ゲーム内で正式に情報を聞き出すまでは輪廻道へは行けないということです。

ビル街の和歌

ビル街からの輪廻道は、北東(右上)の端にある赤いコーンのうちヒビが入ったものを調べるといくことができます。和歌の合言葉は「しげく」です。海底都市から行ける輪廻道の宿にヨーカイだけがいる部屋があり、そこのヨーカイから合言葉を聞き出すことができます。

和歌の内容

和歌の全文は以下の通りです。

ビル街の和歌の内容:

色も無く 繁く来たるは檻の内
息吐けぬまま 頽れる生

これもあまり難しいことのない歌です。少し表現が間接的ですので、あまり和歌などに慣れていない方だとわかりづらいということがあるかもしれません。解釈のしかたも限定されていますので、やはりミノニヨクシティの歌ほど深読みすることもできません。

だいたい「繰り返し檻のような場所に通っては、休む余裕もなく息絶えてしまう人々よ」というような意味になります。

色とは?

順番に見ていきましょう。まずは上の句です。
まず「色も無く」の色は、3通りの解釈があります。1つは文字通りの「視覚的な色」、もう1つは「欲としての色」、最後が「仏教的な色」です。

「視覚的な色」は、説明の必要はないでしょう。目に見えるさまざまな色のことをさします。この色が「無い」ということは、単純にいえばモノクロのような白と黒だけの世界なのかもしれません。

次の「欲としての色」は、主に性的な欲求のことをさします。「色欲」と呼ばれるものです。この場合は、基本的に性欲以外の欲求の可能性が排除されます。そのためなぜ性欲に限定されるかを考えていく必要があります。

最後の「仏教的な色」は、複雑な概念ですが、おおむね「もの」や「存在」そのものだと解釈されることがあります。色即是空、空即是色の「色」です。

忙しい日本人

さて、問題はこのなかのどの「色」がこの歌でとりいれられているかということです。この色がどれを指すのかは、和歌の他の箇所を見ていくことで、おおまかに見えてきます。

「繁く」と「檻」

ひとまず「色も無く」を無視して先に進むと、上の句では「繁く」と「檻」が気になります。
「繁く」は「繁い(しげい)」という形容詞で、その変化形で「繁く」となっているようです(「新しい」と「新しく」の変化と同様)。意味はほとんど「足繁く」と同様で、同じところに繰り返し行く様子を表すようです。

次に「檻」は、直接的な表現ではなく、遠回しの書き方だと考えられます。直接的に「檻」と捉えると監禁されたり投獄されたりしているイメージが湧きますが、そのイメージはあまりこの歌に合いません。なぜならその檻は「繁く来たる」場所だからです。それも「檻の内」ですから、自ら進んで実際の檻に入るというのは不自然です。

そのため「喜んで檻に入る」というより、「檻のような場所にいつのまにか何度も来るようになってしまっている」と解釈するほうが、いくらか自然です。そしてこの檻というものをこのビル街の様子と照らし合わせると、「ぎゅうぎゅう詰めの満員電車」や「本当は行きたくない職場」のように捉えることができます。

過労死する日本人

下の句は、もっと直接的な表現となっています。
「息吐けぬ」は「イキハけぬ」ではなく、「イキツけぬ」と読むのが妥当でしょう。「ためいきをつく」「うそをつく」もこの「吐く」が使われます。
「頽れる」は日常会話では使わない文語ですが、おおむね人の体が「崩れる」「倒れる」というような認識で構わないでしょう。

こうして見ていくと、「息を吐く」は「ひといきつく」というときのような「休憩する」という意味だと解釈できます。そのため、いつのまにか檻のような場所に何度も行くようになってしまって、休む暇もなく倒れてしまう存在、と読んでいくことができます。

これはビル街のコンセプトと思われる、「働き詰めの日本人」の揶揄とかなりマッチします。似た箱庭の街として「赤影タウン」がありますが、あちらは苦しみが強調されており、ビル街はそうした苦しみにすらどこか無自覚で、わざと自分で苦しみに気づかないようにしているようにさえ見えます。ビル街の住人であれば過労死はするかもしれませんが、自殺はあまりしそうではありません。それに対し赤影タウンの住人は、過労死の前に自殺などを選びそうです。

無感覚になっている様子

このように解釈してみると、この歌はビル街の住人のような生き方・死に方をするような人を歌ったものだと考えられます。そのため「色」についても、おおまかながら予想がつきます。

性欲の色

まず「性欲の色」は、かなり可能性が低いでしょう。なぜなら「息吐けぬまま頽れる生」を歌ったものなのに、性欲がクローズアップされるのは不自然だからです。色も無く繁く檻に通うというのを、性欲もないまま会社に向かう、満員電車に向かう、と解釈するのは妙です。

むしろ過労死するまで働き続けてしまうような無理な働き方や、生存本能が壊れているほうに目を向けるべきでしょう。

仏教的な色

次に「仏教的な色」というのも、少し可能性が低そうです。仏教的な色は「もの」「物質」だと述べましたが、「もの・物質が無い状態で檻に繁く通う」というのは、もはや一般的にイメージできる空間を超えてしまっています。ものがない、物質がない状態というのを、どのように解釈すべきでしょうか。これは仏教的な考え方が、非常に抽象的なものであることが原因でしょう。

Minecraftのゲームで考えてみましょう。この仏教的な色がないというのは、Minecraftの世界でブロックがなにひとつないような世界を意味します。土や石だけでなく、鉄も金もダイヤもなく、それどころか岩盤もありません。雲も空もありません。もちろん敵もいません。
そのようになにもない世界で、檻に繁く通うというのは、行為のほうがあまりに日常的でとても異様に映ってしまうのです。

他には色がないというのを、色即是空のように色とは空である、すべては幻だ、というように解釈してみると、多少は意味が通じます。その場合は「達観した会社員が働き詰めで休めずに倒れてしまう」というような意味になります。達観と書いてはいますが、もっと仏教的に解脱したような人、悟って苦しみから解き放たれた人を想定したほうがいいかもしれません。

そうすると「悟って苦しみから解放された人が、日本社会で過労死する」のように首をかしげたくなるような意味になってしまいます。苦しみから解放されているはずなのに、抵抗もせず苦しんだまま死ぬ、という解釈になるので、納得しづらいのも当然です。
そのため色を「仏教的な色」と解釈するのも、少し無理があります。

視覚的な色

そして多くの人が最初に想像するように、「視覚的な色」だと解釈していくのが一番自然だと思われます。頭のなかに、戦争映画などで主人公が撃たれて死に行くシーンで、画面がモノクロになっていく映像を思い浮かべてみるとわかりやすいでしょう。この場合の「色が無い」というのは、無感覚になっていく様子や、死に瀕している様子などを表していると捉えることができます。

今回の和歌をこの線から解釈してみると、極度の疲労や絶望感から無感になり、自分で考えて助かる道をあえて避けて人生を狭めていくような、いわゆる「社畜」のような人々の存在が浮かび上がります(このような言葉は使うのは嫌いですが)。

「ぼくらの」のコモ

この視覚的な色というのは、実は「生」を如実に表現することがあります。少し話が逸れるので、興味がない方は飛ばしていただいて構いません。

鬼頭莫宏という方のマンガで「ぼくらの」という作品があります。2007年にはアニメ化もされ、主題歌「アンインストール」も話題になりました。

少年少女が巨大ロボットに乗せられることになり敵と戦うというストーリーですが、毎回登場人物の1人がロボットを操作し、負けると地球は破滅し、勝っても搭乗者は自動的に死んでしまうという救いのない作品です。

この作者の方は「なるたる」というマンガも描かれていて、こちらも救いのないエンディングの作品です。私はどちらも好きで、この「ぼくらの」という作品で登場人物の一人である少女「コモ」が敵と戦うことになる回があります。ロボットに搭乗することになる人物は契約を行うので、いずれ自分が戦って死ぬことを知っています(少年少女たちは最初それを知らずに契約させられます)。

コモは自分が戦う前に親友の「マキ」が戦って死んでいるので、パニックにならずに自分が死ぬことも受け入れます。コモはピアノを習っていて、自分が死ぬとわかってからレッスンの講師に「音が変わった」と褒められます。彼女は自分がいずれすぐ死ぬと受け入れたとき、「何か世界がちがって見えた」とモノローグで述懐します。

私は自分がこんな状況になってやっと気がついた。
私は自分で何も見ていなかったし何も聞いていなかった。

そしてピアノ。
今まで音を奏でるためだけにあったこの楽器。
でもちがう。
鍵盤を弾くごと、自分がピアノに語りかけるごと、ピアノは自分に語りかけてくる。
私は今までピアノが私に語りかけてくるその音を、聴いていなかった。

私はそれから街を歩きまわるようになった。
今までうすぼんやりとしか捉えていなかった、自分をとりまくその世界を、意識してもう一度捉えなおそうとしてみたのだ。
私が今まで漠然と見ていたもの、聞いていたもの、触っていたもの、かいでいたもの、それらは全て私に語りかけてくる。
私は世界とつながっている。
なんて愛おしい世界。
世界はこんなに美しい。
世界はこんなに素晴らしい。
おそらく、たとえ私が傷つけられても。

この作品は死を強く扱っているからこそ、その反射として生を強く映してきます。「失ってから初めて大切さに気づく」というありきたりで古臭くすら感じられる考えのように、マコはもうすぐ自分の生が失われ、そして自分から世界が失われると悟って、世界の「色」に気づいたのです。

まさにこれがこの和歌に書かれている「色」でしょう。世界の鮮やかさといってもいいでしょう。本質といってもいいでしょう。いいかえることは他にいくらでもできますが、真剣に世界と向き合わなければ見えないものでしょう。

この「ぼくらの」はとても多くの人死にが出ます。同じ作者の「なるたる」も地球の人たちを救うために戦い、非常に多くの人が死にます。そのため死が多い作品、特に死ぬ苦しみが克明に描かれる作品が苦手な方にはとてもおすすめできません。しかし私はとても好きですので、もし読んだことがなくて興味があるのならば、ぜひ読んでいただきたい作品です。

読み応えのあるところは、パニックになりながら死んでいく子供や、自分の死を受け入れて立派に戦って散っていく子供、復讐を目論んでわざと人を殺していく子供の心境を追っていくところではありません。もちろんそこが「ぼくらの」の中核です。もし読み解いていくのならば、そうした子供たちが苦しむ(そしてドラマを生んでいく)様を描けるように、作者や編集者がどれだけあくどい設定を構築したか、という制作者(=神)の非情さを感じていただけると、深く楽しめるでしょう。

次のエントリ

今回で和歌についての考察は終わりです。次回からは中核である「ミノニヨクシティの住人たちの真実」について考察していきましょう。まずは主人公の「ピギュラ」からです。

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