「ミノニヨクシティ」#34【考察】箱庭とは? そしてミノニヨクシティとは?【ネタバレ】

ゲーム考察
「ミノニヨクシティ」の考察です。ミノニヨクシティとはそもそもなんであるのかについて考察していきます。

こんにちは、Caffeineです。
今回は「ミノニヨクシティ」のタイトルにもなっている箱庭、ミノニヨクシティについて考察していきます!

前回のエントリ:
「ミノニヨクシティ」#33【考察】住人たちは精神操作を行われている?!(後)【ネタバレ】
「ミノニヨクシティ」の考察です。住人たちが精神操作をされている可能性について考察していきます。 こんにちは、Caffeineです。 今回は前回に引き続き「ミノニヨクシティ」の住人たちが精神・記憶を操られている可能性について考察していきま...

箱庭とは?

箱庭とは、凶によって管理される街のことをさします。住人からすると「街」として認識されますが、凶からすると少し事情が異なるようです。

この点については、ゲーム内では確認できませんが、作者の方のブログでの裏話にて知ることができます。そこでは多くは語られていないものの、こう記されています。

箱庭は、いわば魂の倉庫なので、複数人の魂を収容することが最低条件となっています。

倉庫?

ここで気になるのは「魂の倉庫」という表現です。倉庫であるとすれば、やはりいつか取り出す予定があるということです。取り出す予定がないなら、表現はよくないかもしれませんが、「溜まり場」や「吹き溜まり」のように表現するかもしれません。

輪廻転生が基本?

ゲーム内で自覚した住人は永遠に生きるというような記述がありますが、この点からすると、それは正しくはないのかもしれません。もし取り出すことが予定されている倉庫であるなら、それはつまり死者の魂はやはり輪廻転生するのが妥当なのでしょう。

自覚した者が輪廻道へ入って旅をし、そこでまた人間になれるのか畜生に落ちるのかはわからないものの、いずれにせよ輪廻転生すると考えられます。しかし場合によっては、自覚した者が強制的に輪廻道に送られることなどがあるかもしれません。

ミノニヨクシティに留まるのはいい? 悪い?

少なくとも死後の世界から現世への魂の供給が順調である間は、ピギュラが自覚したときのように輪廻道に入るか否か選択する余地が与えられるのでしょう。もしこの選択肢がなくなってしまえば、住人にとっては迷惑なことだといえるでしょう。

そう考えると、魂が「死後の世界に留まる」のと「現世へ輪廻転生する」のとどちらがいいのかわからなくなります。サトリ・ミトリなど死後の世界の管理者にとってどちらがいいのか、そして魂たち自身にとってもどちらがいいのか、よくわかりません。

HDDもデータを取り出すためのもの

PCや据え置き型ゲームハードを使用するときにHDDを使うのは一般的になりましたが、こうした装置は「ストレージ」と呼ばれます。ストレージ(storage)には「倉庫」という意味があります。つまり私たちがHDDにデータを出し入れするように、死者の魂は箱庭に入れられたり出されたりするのでしょう。

倉庫があふれる可能性もある

そう考えると、自覚した後に人々は死後の世界に留まるのがいいのでしょうか? それとも輪廻転生するほうがいいのでしょうか? これに関して答えはありません。人によって答えは異なりますし、状況によっても変わるでしょう。

場合によるとミチビキの目標が達成されてミノニヨクシティが楽園になることで、死後の世界に魂が溢れてしまう可能性もあります。ストレージであるHDDにデータが溢れ切って、もはや1KBも新しく保存できないような状態です。

そうなると先程の話のように、もはや自覚した者に選択肢を与えている余地などなく、強制的に輪廻道送りになることでしょう。ミチビキはそこまで考えているのでしょうか? それともやはり夢物語だと認識しているところがあるのでしょうか。疑問は尽きません。

ミノニヨクシティとは?

ミノニヨクシティとは、死者の街です。1日めからホポポが町長代理としてピギュラに対応しますが、ゲーム最終盤で本人から告白されるように、ミノニヨクシティの町長はきのこねくしょん管理人「ミチビキ」です。

そしてミノニヨクシティの本質は、すでにその名前に表れています。これもミチビキから明かされますが、ミノニヨクシティの「ミノニヨク」とは「ヨミノクニ」、つまり「黄泉の国」のアナグラム(文字の入れ替え)です。

私はこのアナグラムには「ひょっとしたら『ミノニヨク』って……」と、ゲームをプレイしている最中に気づいたのですが、より不思議に感じたのは「なぜアナグラムを使う必要があったのか?」という点です。

「ゲームのタイトルにもなっている街の名前を入れ替えると、別の意味に通じるようになってました! すごいですね!」

……しかし実際は「すごいからなんだ」という話になります。基本的にアナグラムは言葉遊びです。そのため意味は大してありません。これはミチビキの遊び心を表すだけにすぎず、これを明かされたからといってなにかが深まるわけではありません。

むしろ「作者がおもしろがってアナグラムを使って真実を隠して、それをミチビキにしたり顔をさせて最後に明かす」という様子が透けて見えて感じられるのです。

アナグラムに意味をもたせるなら

たとえばこのミノニヨクシティの世界観を使った上でアナグラムに意味をもたせるとすれば、ミチビキの生前の出来事にからめることで、多少なら深みをもたせられるかもしれません。

絆に変換する

たとえば、かつてミチビキが人間だったころに親しくしていた女性がいたとしましょう。彼女が病気に侵されてしまいました。彼女はその病気で亡くなるときに、生前のミチビキに対して「死後の世界があるなら楽園がほしい」「もし楽園に名前をつけるならミノニヨクにしよう」といいました。

やがて時が経ちミチビキも死に、死後の世界に来ることになりました。最初は記憶を失っていた彼でしたが、自覚して記憶を取り戻しました。そして彼女のことを探したものの、見つけることはできませんでした。彼は自覚した後に輪廻道に入り長い間 探しましたが、見つかることはありませんでした。長い旅路のなか、ミチビキは彼女のことを次第に忘れていきます。

そして女性のことを完全に忘れ切ってしまった後、彼はヨーカイのスカウトを受けます。そして凶として勉強を積み、箱庭の管理者となるまでに成長しました。彼はふと、どんな箱庭をつくろうかと考えるのです。そのときにミチビキはなぜか、「ミノニヨクという名前にしよう」「住人が喜ぶような楽園をつくろう」と決意します。彼女のことを忘れたまま。

これは記憶が失われても断たれることのない「絆」を表現する方法です。このような出来事を示すことができれば、アナグラムでも意味をもたせることができます。

逆にいうとアナグラムだけでは言葉遊びに過ぎないので、意味がないのです。もしアナグラムに意味をもたせるなら、このように「絆」や「繋がり」に変換して表現するのがいいのではないでしょうか。

設定を考えるのは楽しい

実際のところ、言葉遊びをするのは「架空のおはなしの設定を考える」段階としてとても楽しいことです。人生で好きな作品をいくつも見つけて、それに影響を受けて創作をする人なら、この作業は楽しめるでしょう。「祭りは準備作業が一番楽しい」にも似ています。

だからこそ難しい

しかしだからこそ落とし穴があるのです。この設定の楽しさにかまけて、「鑑賞者に伝わりにくいネタ」を含めるのは、あまり上等ではありません。ゲームでいえばプレイヤーに伝わりにくいネタです。なぜならプレイヤーが置いてけぼりになるからです。

本作においては、これに対する容易な反論が2つ準備できます。

  1. たとえただの言葉遊びに過ぎないとしても、さほどプレイヤーを落胆させる程度のものではない。
  2. フリーゲームなのだから心を広くして許容するほうが建設的である。

この2点です。

たとえばこうしたネタがジャンプのマンガなどで見つかれば、多少の失望の声があってもしかたないでしょう。なぜならジャンプのマンガというのは、「最先端」のひとつだからです。そのなかでは、がっかりするネタは避けたほうが望ましいはずです。その場合、叱責を受けるべきは作者と編集者でしょう。

言葉遊びは慎重に扱うのが吉

ただいずれにせよ、タイトルに対してアナグラムを適用しているというのは、「真実を隠そう」という作者の意識が透けて見える結果となっています(実際にはもっと深い意味があるのかもしれませんが)。

ミノニヨクシティという箱庭は、単に箱庭の一種です。これ以上ミノニヨクシティについて探ろうとするのは、おそらくどんどん無意味になっていくでしょう。なぜならミノニヨクシティの創造者はミチビキだからです。

ミノニヨクシティについて深く知るには、ミチビキについて深く知らねばなりません。しかしすでに彼については考察してきたように、ほとんど情報がありません。特に過去の、人間だったころのことの情報などは皆無です。そのためこれ以上はミノニヨクシティについて知ることは、なかなか難しいでしょう。

次のエントリ

次回のエントリでは、本作内で何度も登場する「境目の目」について考察していきます。

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