「ミノニヨクシティ」#18【考察】住人たちの真実を探る カラコロ編(後)【ネタバレ】

ゲーム考察
「ミノニヨクシティ」の考察です。カラコロの裏事情についての後編です。

こんにちは、Caffeineです。
前回に引き続いて「カラコロ」の考察記事をまとめていきます!

前回のエントリ(【考察】カラコロ前編):
「ミノニヨクシティ」#17【考察】住人たちの真実を探る カラコロ編(前)【ネタバレ】
「ミノニヨクシティ」の考察です。ミノニヨクシティで八百屋を営むカラコロにどのような裏事情があったのかを考察していきます。 こんにちは、Caffeineです! 今回は快活な少年である「カラコロ」について焦点を当てていきます! ストーリー...

ショータ(カラコロ)の真実

前回はカラコロのものと思われる幻などについてまとめました。今回はノーマルエンドルートやクリア後のおまけでの情報についてまとめていきます。

ノーマルエンドでの野菜売り

トゥルーエンドのルートに向かうには、カラコロを自覚させてミノニヨクシティに留まらせる必要があります。しかしカラコロに「友達じゃない」と伝えてイザナイに連れ去らせることで、ノーマルエンドに向かうこともできます。ノーマルエンドのルートですと、カラコロの記憶はミノニヨクシティの住人から消え去ってしまいます。

カラコロの八百屋に人影はなく野菜売りの3人の姿も消えています。板が打たれた奥のドアを調べると、「じかくしてはいけなかったのに」と板にびっしり書いてあると確認できます。
そして床には、ピギュラの店舗予定地と同様「境目の目」らしき模様と「me」という文字が書かれています。

カラコロが留まるルートでは、彼を助けるためにピギュラが東奔西走したことを誰もが覚えていて賞賛してくれるのですが、このカラコロが消えるルートではピギュラが1日ずっと家から出なかったと認識されます。これはセンセーとジョシュも同様でピギュラの体を気遣ってくれるものの、カラコロのことを忘れてしまったまま「なにかを失った」と喪失感に暮れている様子が確認できます。

ここからわかるのは、野菜売りの3人はピギュラと強くリンクしていたということです。その強さは、カラコロの存在が消えてしまえば、野菜売りたちも一緒に消えてしまうほどです。
それと比べると、センセーとジョシュはたしかにカラコロを気にかけていたものの、野菜売りたちほど一蓮托生ではなかったのだとわかります。

はないちもんめ<絵のドア>

主人公ユウヤがミノニヨクシティに留まるトゥルーエンドでは、もちろんカラコロは自覚してショータになっています。そのため他の自覚した住人と同様「はないちもんめ」でショータになることができます。しかし他の住人に比べて、ショータは「はないちもんめ」以外で得られる情報が多いため、実のところ「はないちもんめ」で気になるところは多くありません。

そんななかでも気になるのは、自宅を入ってすぐの壁に描かれているドアの模様です。これを調べると、以下のメッセージが表示されます。

ドアの模様を調べたときのメッセージ:

…トビラがあるようにみえるけど、
かべに、かいてあるだけ。
ほんとうは、だれもいない。

これはとても些細な情報ですので見落としがちですが、このドアの模様は3つ並んでいます。どれを調べても同じメッセージが表示されるだけです。
私が気になったのは、このドアの模様の数が野菜売りと同じく「3」であることです。

「3」とドアの配置

「早乙女」の幻やショータが自覚する際の病室の様子を思い返すと、右から順に3つ野菜売りたちと同様の名前の病室が続き、左端がショータの病室だとなっているようでした。

この「はないちもんめ」でのショータの自宅も、右から3つがただの絵のドアで、左端の通路が自室に繋がっています。ただの偶然かもしれませんが、関連性を見出すこともできます。

「だれもいない」

そしてドアの絵を調べたときの「ほんとうは、だれもいない」という記述から考えてみると、ひょっとするとショータは「野菜売り3人」がミノニヨクシティに実在する人物ではないのだと悟った、ということなのかもしれません。フェイクの扉であれば、「ほんとうはどこにも繋がっていない」や「ほんとうはなにもない」などと述懐するのがふつうではないでしょうか。

それでも「だれもいない」と表記されるところをみると、「いるように見えているけど、本当はいない」ということなのでしょう。日本語で「いる」は生物に使われ、「ある」は無生物に使われます。そうであるならば、ショータは誰かしらが「実はいない」ということに気づいている、と考えることができるのではないでしょうか。

ただしこれが「ショータが自覚したから」なのかはわかりません。少なくとも自覚後のショータはそう理解しているように見えますが、カラコロのときからそうだったのかを知ることはできないでしょう。

まとめ

カラコロ(ショータ)はピギュラ(ユウヤ)と同様に、自覚前の姿と自覚後の姿を両方とも見ることのできる稀有な存在です。しかもユウヤは自覚前の一つ目の姿が死因と繋がっている様子が見受けられないのに対し、ショータは絞殺という死因と密接に繋がっていると感じられる風貌になっています。

そのため確信というほどではありませんが、ショータの死因は首を絞められたことであり、それを実行したのは母親だと見なすのが自然でしょう。またその死に至るまでの経緯も、病院という場所と手紙の内容から容易に推測することができます。ストーリーを追うだけでもこれは理解していけるので、不明点は少ないほうだといえるでしょう。

しかし残念ながら、「センセー」と「ジョシュ」に関しては生前のショータとの繋がりもほとんどわからない状態です。むしろこの2人の影がカラコロのストーリーに関連して登場することが、なお謎を深めているとすらいえます。

「幻」での母親の述懐

さて、次の内容はカラコロおよびショータの考察としては少し外れるので最後に述べますが、カラコロの母親の手紙を今一度 見返してみましょう。

ここは考察というより、カラコロの母親の心情を読み解いていく形になり、介護のつらさなどの話をしていきます。人によっては不要な重い話だと感じられるかもしれませんので、ここは読み飛ばしてしまっても構いません。

あなたが生まれてからの十年間、
私はあなたに、無償の愛を注いできた。
自分の命を投げ打ってでも、あなたを
守っていこうと、思っていた。
けれど、もう私は疲れたみたい。
植物のようになったあなたを、
私はもう、愛することができない。
あなたの首をゆっくりと縛りあげる、
その縄を持つ手を、どうか恨まないで。
ごめんね。ごめんなさい。
愛してる。

カラコロの母親の手紙を見返してみると、「無償の愛」や「自分の命を投げ打ってでも」など美辞麗句が並べられてあります。私が気になったのは「私はもう、愛することができない」という文です。これは最後の「愛してる」と矛盾します。

「愛してる」が「もう愛することができない」

よっぽど切羽詰まっていて、論理的な文章など書いている場合ではなかったと、同情的に考えることはできます。また「もう私は疲れたみたい」とあるように、介護に疲弊してしまっていたこともあるのでしょう。しかし私は「もう疲れた」は納得できるものの、「もう愛せない」は納得できないのです。

「もう続けていけない」や「もう耐えられない」なら納得できます。しかし「もう愛せない」には、決定的な違いがあるように感じられるのです。死をもっての離別ではなく、「あなたはもう私の愛する者ではない」という類の「親子としての決別」のように見えるのです。離別ならどうしようもない状況かもしれませんが、決別には別れようという決意が含まれ得ます。

言葉にしてはいけないこと

ブログではあってもこうして言葉を扱っている身として、「言葉にしてはいけないこと」というものがあるのを理解しています。それを避けないと傷つく人がいるから、使わないのが適当だということは少なからず理解しています。たとえば差別用語などです。蔑称を使うことも、文章や筆者自身の価値を下げます(「マスゴミ」や「ネトウヨ」など)。こうした使ってはいけない致命的・決定的な言葉があるというのをいくらか理解しています。

安直な「PV稼ぎ」の文章

これまでブログやインターネットメディアなどで、安直な「人を感情的に操りやすい言葉」が使われ続けてきた結果、(少なくとも)現在の日本のウェブ上の記事は信用されなくなったといってしまって構わないでしょう。心ない小銭稼ぎの言葉が、結局のところネット上の言葉の信用を失墜させてしまったのでしょう。

冗談では済まない表現

そうした憂いをもちつつネットで文章を書く身からすると、「愛することができない」という表現は、たとえあまりに疲れていて論理的な文章を書けない状況にあったとしても、致命的・決定的であるのに違いはないのではないかと感じられるのです。親がたとえ冗談でも子供に「死ね」もしくは「あんたはもう私の子供じゃない」といってしまえば、もはや冗談にはならないのと同様です。

人によってはこうした言葉ではなく、カラコロの母親の態度ですでにそうしたものを感じているかもしれません。つまり疲れてしまったにせよ愛しているにせよ、わざわざ子供を殺して、しかも自分の手で実行し、あまつさえ手間をかけてわざわざ吊らせているのです。態度としてすでに母親のそれではないと感じる人も少なくないのではないでしょうか。

このようにして見てみると、最後の「愛してる」が非常に詰まらない定型句に見えてきます。別に親しくもない友達との「また明日」や、倦怠期で面倒になってしまっている夫婦の感情のこもっていない「おやすみ」のように。単なる「ここで言わないといけなさそうな定型句」であり、本心からの発言に見えないのです。

実体験から

あまり他言することではありませんが、私の家族も病に倒れ、病床で鬼籍に入りました。脳に障害が残ってしまい、私たち家族の名前を呼べなくなりました。最後にはほとんど言葉も喋らなくなっていく様を見ていました。

植物状態というほどではありませんでしたが、目を覚まして私たちを見ていても、誰であるか認識していないような状況が続いていました。明言しておくと、私たち家族の介護の期間は、カラコロの母親と違って十年というほど長い年月ではありませんでした。

現在の日本は高齢化社会であり、介護が必要な人が増えていくといわれています。また実際に現在 介護を受けている人、介護をしている人も少なくないことでしょう。経験者としていうことがあるなら、精神的にも身体的にも介護は確実に消耗していくということです。

そうした状況を憂う人たちが、無理に自分たちでつきっきりの世話をするのではなく、プロの介護士などに任せて負担を減らすほうがいいと考えるのは、納得できます。介護を必要とする状況になったのが事実として曲げられなくても、罪滅ぼしのように介護に集中して心身ともに消耗するのは、自罰的なだけで現実的ではないのです。

少なくともそうした介護の日々を経験したことがあるので、ショータの母親が疲れたという点を私は否定することができません。他の人に頼ることができずに、自分を責めてしまっていたのかもしれません。とにかく自分だけでどうにかしたかったのかもしれません。

自分の手で首を吊らせるという所業

しかしわざわざ首を吊らせたという点に関しては、情状酌量の余地がありません。
経済的・精神的な負担からどうしても続けられないとしても、殺して首を吊らせるというのは理解の及ぶところではないでしょう。

よく「手を汚す」という表現が、物語では使われます。架空の創作では人死にがたくさんあるので、それを流用したテーマとして「実際に殺人を行わせるか否か」というのは大事な論点になるのです。

しかしカラコロの母親について考えると、わざわざ手を汚して殺す必要がそもそもないように感じられます。首を吊らせるというのはもはや意味がわかりません。探偵ものや推理もののマンガやアニメで、犯人がアリバイを作るためなど目的があってするのなら、まだわかります。しかしカラコロの母親にはそんな目的がありません。むしろ殺意や怨恨などの感情がないと、そうした行いはできないのではないのでしょうか。

単なる演出という可能性

カラコロの母親が「なぜ息子をわざわざ自分の手で殺し、首を吊らせのか?」という疑問への答えは、簡単なものが1つすぐに用意できます。それは「母親の心理的な動機から」でなく、単に「ゲームの演出上の理由」だと捉えることができるのです。

母親の凶行は単なるゲーム的演出?

カラコロというキャラクタは見た目にちょっとしたインパクトがあり、縊死という死因も反映されていますので、いわば「キャラが立っている」存在だといえます。要はこうした死因は、キャラづけの一環だと見なすことができるのです。

母親がそう殺したいからそうしたのではなく、カラコロというキャラクタを際立たせるため、絞殺し首を吊らせるという演出をした、という捉え方です。単なるゲームとしての演出です。人によっては「創作物の演出のためにそんな設定にするなんて」と思うかもしれません。

しかし私はゲーム上の演出であるほうが気は楽かもしれません。なぜなら母親が愛しているといいつつ子供を絞殺して吊らせるよりも、単にゲームの演出であると見なすほうが容易に理解できます。これは「子供を愛し切れず自己矛盾にも耐えられなかった母親」を想定するより、味気ないゲーム設定のほうが安心できるといっても構わないのかもしれません。

創作物語では当たり前の「死」

それに日本の、ひいては世界のサブカル界隈を見てみれば、ゲーム・マンガ・アニメ・映画、そこかしこに「ありきたりな死」が見受けられます。殺すという行為も、同じです。もはや「名作を創作するにはキャラクタを死なせるのはしかたがない」という諦めすら感じます。
そうした全体的な創作物の状況を考えると、なにもこの一点が「ミノニヨクシティ」という作品を台無しにしてしまうほどの失態とはいいがたいでしょう。

この点に関して、私は「ゲームの演出を正当化するための設定」だと理解するようにします。なぜなら人はおおむね、自分の信じたいことを信じるだけだからです。
考察というのも、答えが明確に出せるものではありません。作者の方が答え合わせをしたがることがない限り、その答えは基本的にわからないものなのです。

次回のエントリ

次回のエントリでは、今回のカラコロを見守っていた「センセー」と「ジョシュ」について考察していきます。

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