こんにちは、Caffeineです。
前回に引き続き、「ミノニヨクシティ」の境目の目について考察を続けていきます!
裏世界の目
前回は地面に描かれた「境目の目」らしき絵について考察してきました。しかし実際の「境目の目」の絵についても、まだ不思議な情報があります。
それは裏世界の「おおめだま公民館」のような場所にかかっている絵です。裏世界はミノニヨクシティとかなり似た構図となっていますが、裏世界にもおおめだま公民館のような場所があり、ミノニヨクシティで「境目の目」の絵がかかっていた場所に同様に絵がかかっています。それを調べると、以下のメッセージが表示されます。
さかいめのめは
きみたちをいつでもみている
かわいそうなきみが
どうかじかくしませんように
かわいそうなきみが
どうかじかくしませんように
裏世界については、「イザナイの真実」編にて考察しました。現在はイザナイが裏世界の管理者になっているものの、もともとは流刑地であり、イザナイの築いた箱庭ではないということでした。
このメッセージは誰からのものなのでしょう。「かわいそうなきみ」という言葉は、イザナイには似つかわしくありません。むしろサトリ・ミトリの過保護ともありがた迷惑ともいえる強制的助言に似通っています。
サトリ・ミトリの言葉?
しかしこれをサトリ・ミトリのものと捉えるのも、やや不自然です。なぜなら今や裏世界は犯罪者であるイザナイが管理しているのです。サトリ・ミトリがその箱庭に存在する物品に自由にメッセージを残せるものなのでしょうか。
もしそんなことができるなら、ピギュラのようにいつ裏世界に迷い込むかわからない人に伝わりにくい半端な忠告をするより、さっさとイザナイをどうにかするのが筋でしょう。そもそもなぜ裏世界に居座っているんだ、という話になります。
これに対して反論を用意するなら、「サトリ・ミトリがいるからこそ このときイザナイはピギュラに手を出さなかったのかもしれない」ということです。サトリ・ミトリは常にこの場にいるのではなく、ピギュラ(を動かす私たちプレイヤー)が裏世界に来たときだけ、ここに姿を現すのかもしれない、と考えることができます。
神や制作者の言葉?
もしくはサトリ・ミトリ以上の存在かもしれません。ゲーム内では言及されていませんが、「神」などがいる場合です。これについては、たしかに可能性としてはありうるかもしれません。しかしこれまでこのゲームの神について考えてきたときはそうであったように、ゲーム内で神の存在が語られていない以上、どれだけ神について推測してきても不毛です。
むしろそんなまだるっこしいことを考えずに、直接的に「制作者からのメッセージ」と捉えたほうが素直かもしれません。これまでの情報でもそうでしたが、このメッセージについても確かなことはわかりません。
なぜ「君たち」と複数形なのか?
このように誰からのメッセージであるかは、かなり曖昧です。しかし別のところに注目すると、「きみたちをいつでもみている」となぜ「たち」で複数形にしているのかが気になります。ピギュラないしユウヤに対してであれば、これは「きみをみている」と単数形にするのが当然でしょう。
特にもしこれがサトリ・ミトリからのメッセージで、ピギュラがイザナイにかどわかされないように監視しているのだとしたら、ピギュラが単独で裏世界に来ているのは一目瞭然です。
この複数形の表現の理由は、2つ考えられます。
①ピギュラを筆頭とした死後の世界の住人をまとめてさした表現
②ピギュラを操作しているプレイヤーをも含めた表現
これは可能性として、どちらも否定できません。一般的な考え方であれば、①と捉えるのが常套でしょう。しかし誰からのメッセージかわからない以上、第四の壁を破って私たちプレイヤーに対して語りかけてきている”のではない”と確信するに足る情報がないのです。
トゥルーエンドクリア後の裏世界
この裏世界のメッセージは、トゥルーエンドとしてクリアした後に訪れると変化しています。
さかいめのめは
きみたちをいつでもみている
きみは きみを わすれないで
いみのないものなど ないのだから
やはり誰からのメッセージかわかりにくい
さきほどの「たち」という複数形の表現に注目して読んでみると、やはりこのメッセージは誰からのものかわかりづらい内容なのだと改めて気づかされます。ピギュラたち死後の世界の住人に充てられたものなのか、私たちプレイヤーも含められているのかハッキリとわからないのです。
特に作品内で制作者から鑑賞者に向けられたメッセージというのは、基本的に別のキャラクタの言葉として表現されるため、本当にそうなのかわかりにくいものとなりがちです。たとえば昔話などが顕著です。
舌切り雀の大きいつづら小さいつづらや、蜘蛛の糸のように教訓がわかりやすい昔話があります。そんななかで、金太郎や猿蟹合戦のように教訓を得づらい昔話もあります。これは昔話が教訓を得られる話だと認識される一方で、すべての昔話がそうとは限らないことを示しています。
これは実際には金太郎や猿蟹合戦でも、話を広めようとした人は教訓を含めたつもりでも、それが伝わりにくかっただけなのかもしれません。もしくは舌切り雀や蜘蛛の糸のわかりやすい教訓も、私たちが勝手にそう読み取っているだけで、もともとはそんな教訓など含まれていなかったのかもしれません。
こればかりは「作者のみぞ知る」というのが正確な答えでしょう。作者の頭のなかだけが事実なのであり、私たちがどう解釈しようと、それは「その人がそう信じている」という真実でしかないのでしょう。
現代日本人的な発想
さて、話を戻しましょう。トゥルーエンドクリア後のこのメッセージについて、皆さんはどのように感じるでしょうか? 私にとっては、とても人間的な言葉だと感じました。より細かく述べるなら「現代の日本人的な言葉」だといってもいいかもしれません。
意味は見つけるもの
「意味」というのは、見つけるものです。発見するものです。発掘するものです。これは価値といってもいいかもしれません。どんなものにでも意味は探しうるのですが、逆にいうとどんなものでも無価値になりうるのです。
私たちにとって、水というのは当たり前の存在です。特に日本人は海に囲まれた島国に育っていますから、水に囲まれているといっても過言ではありません。しかし砂漠では、そのような価値観では通用しないでしょう。なぜなら砂に囲まれていて水が得にくいからです。価値は状況によって変動します。
これはお金についても同様です。お金というのはとても有用ですが、日本円を他の国へもっていっても使えません。また世間から隔離された状況では間接的なお金の価値より飲食物の直接的な価値のほうが重くなるので、お金が意味をなさなくなる状況があります。そうした状況でお金持ちが「いくらでも出すから水をくれ!」というのは、ブラックジャックのストーリーなど創作でも皮肉としてとりあげられることがあります。
意味は「内在」するものではなく「発見」するもの
そうした観点からすると「意味のないものなどない」というのは一面的には正しいのですが、充分ではありません。私たちが意味を見出そうとする限り、すべてのものになんらかの意味を見出すことができます。それこそ重大な犯罪をおかした死刑囚にでも意味や価値を見出せます。しかし「死刑囚なんて殺してしまえ」と意味を見出す意志がないならば、意味は見出せません。
たとえばゲームというものは、ゲームをしない人にとってはなんの価値もありません。なぜならゲームの恩恵を受けたことがないので、その価値を認める必要がないからです。しかし私たちゲーマーは、ゲームがいかに私たちの人生を刺激してくれているかをリアルに体感してきています。
これに対してゲームをしない人に「ゲームにも意味・価値はある。意味のないものなどない」といっても届きません。なぜなら彼らはその意味・価値に気づこうとはしませんし、気づくことにメリットがないからです。それならば私たちは「ゲームにも意味・価値はあるが、あなた方はそれに気づいていないだけだ」と答えるほうがまだ利口でしょう。彼らが気づくか否かにかかわらず、私たちはその価値・意味に気づいているからです。
これを広げると、「すべてのものに意味はある」と前向きな人はいい、「すべては無意味で無価値である」と絶望している人はいいます。この「意味のないものなどない」というのは、非常に前向きな言葉です。しかし前向きでない人たちには、届きにくい言葉です。むしろ「すべては無価値」と信じている人にとっては、話が通じない相手として敬遠されかねません。
昔話の教訓も「勝手にうけとるもの」
さきほど昔話をとりあげましたが、昔話の教訓も私たちが勝手にうけとっているものです。昔話を最初に語り出した人がどう伝えたかったのかにかかわらず、私たち聞き手は勝手に意味を見出すのです。
それが正しいかどうかは関係ありません。表現というものは、それを伝えようとした内容や意図にかかわらず、聞いた人や見た人が勝手に答えを思い描くものなのです。
詭弁のような表現
「境目の目」に話を戻しましょう。この裏世界のメッセージが、サトリ・ミトリのものであると仮定しましょう。
「意味のないものなどない」というのはどういう意味でしょう?
私はここで、裏世界送りにされたイザナイやすでに消滅してしまった凶などの魂に思いを馳せます。彼ら彼女らは、消滅させられるべき「意味のないもの」だったのでしょうか? それとも「意味のないもの」ではないし消滅させるつもりで送ったのでもないとサトリ・ミトリは考えているのでしょうか? もしくは「意味のないものではないが、消滅させられるべきもの」だったのでしょうか?
サトリ・ミトリの言葉ならとても軽い
どれも言い訳であり、詭弁には聞こえませんか? 実質的に死刑や無期懲役は、「手に負えないから終わらせる・ずっと隔離する」という意味合いです。こうした処罰を受ける人物に対しても「意味のないものなどない」といえない限りは、その言葉はとても軽いものになります。
この裏世界の「境目の目」のメッセージがサトリ・ミトリのものであるなら、とても軽い言葉です。イザナイや他の凶を裏世界送りにして消滅させようとしたことを隠した上で、自覚したユウヤには「意味のないものなどない」といっているのです。
しかも「君は君を忘れないで」といっていますが、これまで述べてきているようにサトリ・ミトリは「すべての事実を住人に吐露する」という方法を採択しない政治を続けています。新しい住人に「あなたは死んだのでここに来ました」「だから記憶を失っています」「一緒に記憶をとりもどしましょう」という建設的な政治を、なぜか選ばないのです。
正体が見えないことへの不信
これと「自覚してはいけない」という何度も登場する文言から、「サトリ・ミトリは自覚していない住人をなるべく自覚させないように誘導している」という可能性に到達します。これは「君は君を忘れないで」と合致しません。
私たちはサトリ・ミトリがどんな存在で、どんな能力をもっていて、どんな目的のもとに活動しているのかを理解できません。理解できないように、情報が隠されているのです。この秘密主義が、サトリ・ミトリ自身への不信に繋がっています。つまり「どの口でそんなことをいっているんだ」という怒りに繋がるのです。
「境目の目」がいつでも住人たちを見ているとしましょう。場合によっては、プレイヤーである私たちをも見ているとしましょう。しかしただ見ているだけです。無益なことをメッセージとして表示するだけで、毒にも薬にもなりません。つまりおおよそこの「境目の目」は、無視して構いません。意識するだけ無駄です。
ゲームの「カメラ」
この「見ている」という行為がどれほど無意味か、例を挙げてみましょう。
それはたとえば「ゲームのカメラ」のようなものです。RPGやSLG、ADVなどいろいろなジャンルで、ゲーム内の映像をプレイヤーに見せるために、カメラの映像が見えるようになっています。
例としてはTPSがわかりやすいでしょう。主人公の後ろにカメラがあり、ずっとそのカメラが主人公の後をついていくのです。そしてプレイヤーがゲーム内の映像を見やすいようにカメラを操作することができます。
カメラが常に私たちの後ろにあったら……
もしこんなカメラが、私たちプレイヤーの後ろにもあったらどうでしょう? 実は私たちがプレイヤーなのではなく、ゲーム内のキャラクタだったとしたら……という思考実験です。
私たちの行動は、すべてそのカメラから映像として見えるようになっているので筒抜けです。四六時中なので、逃げることはできません。カメラを見ようとしても私たちの背後にある上、カメラは不可視ですので絶対に見ることはできません。
これは、ちょっと考えるとホラーにも近い恐怖を与えます。どんなときもどこにいてもついてくるカメラですので、逃げられません。原理はどうなのかはわかりませんが、振り払うことは絶対にできません。しかも誰に見られているのか、ゲーム内のキャラクタである私たちにはわかりません。
しかしこのカメラは無価値
この「ちょっとした恐怖感」を振り払う方法をお教えしましょう。この「カメラ」は、私たちにとって無価値です。なんの被害も与えないだけでなく、なんの利益ももたらしません。そもそも不可視ですので知覚できません。本当にあるのかどうかすら確かめられません。私たちが「ない」と信じればありませんし、「どうでもいい」と信じればどうでもいい無視できる些細な事柄に過ぎません。
「境目の目」は、このカメラと同様です。見ているだけなら無価値なのです。被害も利益もないので、無視しておけばいいのです。
少し異なる点があるとすれば、「境目の目」はおおめだま公民館などで「存在する」ことを誇示してくるため、私たちは存在することを知ってしまうところです。私たちの背後にあるかもしれないカメラは、決してその存在を誇示してこないので、「ない」とも「無価値」とも信じることができます。いわば「境目の目」は古いネット用語でいうところの「構ってちゃん」なのです。
そのためこれがサトリ・ミトリのメッセージだとしても、ほぼ無価値なので無視してしまって構いません。サトリ・ミトリはイザナイになにもできずにいるので、現状維持以上の価値を住人に与えていません。むしろ不安を与えているだけ有害といえるかもしれません。
次のエントリ
次回のエントリでは、この「ミノニヨクシティ」の最後の考察として、「プレイヤーである私たちの生きるこの世界」が本当にあの世ではなくこの世なのか考えていくことにしましょう。