「ミノニヨクシティ」#37【考察】私たちのこの世界は本当に「この世」なのか?(前)【ネタバレ】

ゲーム考察
「ミノニヨクシティ」の考察です。まとめとして、「この私たちの生きる世界」についても考察していきます。

こんにちは、Caffeineです。
「ミノニヨクシティ」の考察のまとめとして、このゲームがプレイヤーに投げかけているとも受けとれる疑問について考えていきます!

この世は本当にこの世か?

ミノニヨクシティのゲーム本編に関する考察は、前回までで大まかに終わりました。

しかし考察としては、まだ他にも残っています。それは「作者はこのゲームでなにを伝えたかったのか?」という点です。通常、物語ではそのストーリーの展開、主人公の生き様が直接そのまま作者の伝えたいことである、ということが多いものです。しかしそれ以外にも、間接的に伝えたいこともときには含まれています。

本作では(私が勝手にそう判断するだけに過ぎませんが)『この世界は本当に「この世」か? 「あの世」ではないのか?』ということなのではないかと感じました。それはミノニヨクシティの住人は「この世」と同じように生活していながら、その実すべての住人が死んだ後の人たちであるという点から感じたことです。

ちなみにジャミガのように生前が人間であった確証に乏しいキャラクタもいますので、住人が「死んだ後の人間」と呼ぶより、「死んだ後の生物」もしくは「死んだ後の魂」と呼ぶほうが適切かもしれません。

本当に「自覚してはいけない」のか?

本作の重要なキーワードは、「自覚してはいけない」です。ここまで考察してきた私たちであれば、このキーワードに対しても疑問を投げかけることができます。「なぜ自覚してはいけないのか?」というふうにです。

この「自覚してはいけない」という言葉について考えると、どうしても私はミチビキたち箱庭を管理する「凶」、そしてその上司と思われる「サトリ」と「ミトリ」のことを疑わずにはいられないのです。それは彼らにとって、死者たち住人が自覚せぬまま記憶を失っていたほうが、単に「管理が楽だから」という印象が強いからです。

自覚した者は、どうやらミノニヨクシティの住人のように箱庭の街に留まるのはレアケースらしく、暴れて箱庭を封鎖させてしまうケースも少なくないようです。また自覚することで、イザナイに誘われて「裏世界」へ連れていかれることもあります。イザナイに連れていかれるのは、彼女を増長させるかもしれないので懸念要素としては納得ができます。

なぜ「自覚」は「いけない」ことなのか?

しかし住人にとって自覚することはどうしていけないのでしょうか? これは「ミノニヨクシティ」というゲームの大きなテーマです。つまり「残酷な真実を知って生きることと、つらいことを忘れて生きることの、どちらが『よりよい』か?」というテーマです。

少年マンガ的にいえば、「どんなにつらいことでも知っているほうがいい」とでもなるでしょう。今の日本社会であれば、「耐えられない重荷なら、忘れていたほうが楽」と考える人も少なくないでしょう。

住人には「知る」権利がある

個々人の判断に、私が疑義を呈そうとはまったく思いません。しかしひとついえることは、「忘れて生きる」にせよ、「自覚して暴れる」にせよ、「知って穏やかに暮らす」にせよ、どうするかは住人に選択肢として与えられるべきで、「知る」ことは前提条件なのではないかと思われるのです。

自覚した者は、原則として輪廻道に入ることになるそうです。しかしミノニヨクシティの住人のように、箱庭の街に留まることも選択肢として与えられているようです。他の街を見ると、人間の姿をしている住人はほとんどみかけられません。これが「他の街では自覚したら輪廻道に強制的に送られる」ということなのか、「管理者がなるべく自覚させないようにしている努力の賜物」なのかはわかりません。

いずれにせよ自覚後に「暴れる」という者がいて、その結果「箱庭が封鎖される」というのであれば、リスク管理の点からたしかに「住人が自覚する」ということについては配慮しておくのは合理的です。しかしそれは凶やサトリ・ミトリの立場から見たものです。「自覚」というのは基本的に本人の問題です。それによって副次的に箱庭に影響があるかもしれませんが、基本的に本人がどうしたいかが一番の問題で、そのせいでなにが起こるかは二の次であるはずです。

この自覚の問題を、本人に委ねずに管理する者たちで勝手に「自覚してはいけない」と封じ込めることは、つまり支配層による「お前たちは馬鹿のままでいろ」という意志の表れと捉えることができるのです。

「自覚」と「未自覚」という区別

実質的には、「自覚する」というのは他人から情報を吹き込まれるものではないのかもしれません。たとえばガルルは心中の場面に偶然いあわせて助けるために崖から飛び降りて、不運にも一緒に亡くなってしまったようですが、ガルルはときおり(意図的でないながらも)「自覚」しようときのこねくしょん傍の崖に向かいます。

自覚していない者は愚かか?

このときに考察を済ませた私たちが、「ガルルさん、あなたは実はすでに死んでいて、こういう死因で亡くなったんですよ」とガルルに直接教えるのはあまりに筋違いでしょう。なぜなら根本的に「気づく」というのは本人の「知りたい」という欲求があってこそのもので、「知りたくない」と思っているのに強制的に「気づかせる」というような行為は、むしろ当人のためではなく伝える側のエゴであるからです。

この感覚は、おそらくプレイヤーも実感することができるはずです。それは「自覚」とはなんであるかを理解した上で、ガルルやヤコフのように「自覚していない」人物たちをどのような目で見るか、で如実に表れるからです。

彼らをまだ覚醒せぬ者として哀れむでしょうか?
不条理な真実を知らぬ者として羨むでしょうか?
自発的に気づけぬ愚か者として無視するでしょうか?

幸福だと自覚することが幸福

これは「自覚した者」と「自覚せぬ者」の間に自然と生まれる区別であり、ときにこれは差別になるのです。
おそらくミノニヨクシティには、そうした区別を自発的に差別にして、「あいつらはまだ知らない愚か者だ」と自分が優位になったかのように誇る人はいないでしょう(そう願いたいものです)。

しかし今の情報化の時代、「お金をたくさんもっているほうが幸せ」だと勘違いするのと同様に、人々が「情報をたくさんもっているほうが幸せだ」と勘違いしてしまうことを私たちは知っています。Twitterでのフォロワー数や、1日に来るLINEのメッセージ数を気にするというのは、それと類する勘違いです。幸せとは所有物が多いか少ないかではなく、どれだけ自分が幸せであるかを自覚しているかでしょう。自分が不幸だと自覚(認識)している者は不幸です。自分が幸福だと自覚(認識)している者は幸福です。たとえそれが紛い物でも。

忘れたいかどうかは当人の意志

さて、ここで話がやや戻ってしまうのですが、凶たちやサトリ・ミトリを擁護するならば、「たとえ紛い物でも、不幸を忘れてしまえば不幸ではなくなる」というのは、愚かしくはあるものの幾許かの真実をはらんでいるでしょう。

勝手に記憶を消すのは「エゴ」

死後ミノニヨクシティなどの箱庭に来るとき生前の記憶を失うというのが「必然のシステム」なのか、サトリ・ミトリなどが構築した「人為的なシステム」なのかはわかりません。もし人為的なシステムで、勝手に記憶を消されてしまうのであれば、傍迷惑、ありがた迷惑というものでしょう。

これは個人の心の問題です。不都合な真実に対しての態度は、他のゲームでも題材にされることがあります。それに対して「不都合でも知りたい」と思うか、「不都合なら知りたくない」と思うかは、個人の心の強さによって変わるでしょう。しかしシステムによって一緒くたにされて、「不都合だから忘れさせてもいいよね」では、単なるエゴなのです。

事実を伝えることで信頼を築ける

もちろん生前のことを忘れるのが必然で、勝手にそうなってしまうシステムなら、凶やサトリ・ミトリには責任がありません。しかし管理者としては、「はじめにお伝えしたいのですが、あなたは重大な真実を忘れてしまっています。それはとてもつらいものなのですが、思い出したいですか? 忘れたままで過ごしたいですか?」と伝えることができるでしょう。

もちろんここにも問題はあって、こうして伝えることで「私にはなにか知らないことがあるんだ。なんだろう。なんなんだろう?」と固執してしまい気に病む人が現れるかもしれません。

それはそれで問題ですが、ピギュラが毎日見た夢のように、もしくは崖へ赴いてなにかを思い出そうとするガルルのように、いずれにせよ「なにか重大なことを忘れてしまっている」といずれは感じるものかもしれません。そうであれば、予め忘れていることがあると伝えるのは、むしろ自覚後に凶たちへの信頼を深めるための布石として有効なのではないでしょうか。

次のエントリ

次回のエントリでは、引き続き「この世界は本当にあの世ではないのか?」について考察を続けていきます。

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