こんにちは、Caffeineです。
引き続き今回も「ミノニヨクシティ」の考察を続けていきましょう!
輪廻道へ続く和歌
輪廻道への和歌は、細かい仕組みはわかりませんがドアもしくは鍵の役割をしています。ミノニヨクシティの場合は演出上見えない壁になっていて、今回の海底都市のものはテープで遮られているだけで通れそうな箇所に和歌が書いてあります。
しかし他の場所では包丁を調べるなど、通常の感覚では「ドア」とは認識しにくいものに和歌が書かれているため、やはり鍵のようなものと解釈するのが自然なのかもしれません。やはり原理は不明ですが、合言葉をあわせることで「きのこねくしょん」のようにワープできるように移動できるということなのかもしれません。
海底都市の和歌
海底都市からの輪廻道は、海藻養殖所の左奥にある「KEEP OUT」のテープが貼ってあるところを調べると行くことができます。和歌の合言葉は「みなわ」です。ミノニヨクシティから行ける輪廻道の宿、その一番右端の部屋にいるヨーカイから合言葉を聞き出すことができます。
和歌の内容
和歌の全文は以下の通りです。
水泡とて 果敢なき生を跳ねるのを
我が身を沈め 抱く大洋
ミノニヨクシティのときの和歌は場所に関連するイメージは強くありませんでしたが、海底都市の和歌は海に非常に関連のある内容となっています。しかしこの歌はミノニヨクシティのときのものほど深く読むことはできないでしょう。
上の句は「水の泡ですらむやみやたらに跳ねてみたりするというのだ」というような解釈ができ、下の句は「私はこの身を海に沈めて大きな海に抱かれるとしよう」というような解釈になります。
この歌はおおまかに2つの解釈があります。1つは「入水による溺死」、もう1つは「飛び降りによる自殺」です。
入水による溺死
水泡(みなわ)は、そのまま「水の泡」を示します。この表現をどう捉えるかで解釈が分かれます。上の句では水泡が跳ねるという表現がなされています。ふつう水の泡は深いところから浅いところへ浮かび、最後は水面で破裂して終わります。この水面での破裂を「跳ねる」と解釈すれば、おおよそ入水による溺死だと解釈することになります。
なお「入水」をジュスイと読むと、おおむね「水中での身投げ自殺」を意味します。これをニュウスイと読むと、「入水管」のように水を入れるという漢字通りのままの意味になります。
ゆっくりと沈んでいく体?
この解釈だと、歌の主は最初から海の底にいるような状況、もしくはゆっくりと沈んでいくような構図になります。肺に残った呼吸を吐き出し、その泡が水面へと上っていくのを見ながら、このような歌を考えたのかもしれません。基本的には人間が歌ったものとして、そのような状況だといずれ死に行くので「溺死」の歌だと捉えることになります。しかし人間ではなく海底都市の住人の歌だとすると、自分の呼吸だけでなく海底からのあぶくのようなものが上っていくのを見ている様子とも解釈できます。
本当に自殺の歌?
死に関する歌だとしても、この解釈の場合は自殺かどうかがわかりません。歌とは基本的に画像のようにワンカットを切り取って言葉として表現するものなので、そのワンカットの前後のことは明確にはわからないのです。
たとえ「死にそう」「もうすぐ死ぬ」のワンカットだったとしても、その1秒後に神が「君を助けてあげよう。ほーらここは地上だぞ」とでもなる可能性がゼロではありません。またその死にそうな状況を「自分から進んでつくりあげた(自殺)」のか「他人にそうしむけられた(他殺)」のか「偶発的にそうなった(事故)」なのかもはっきりとはしません。
こう考えると「細かいことはわからない」という非常につまらない話になりますが、いずれにせよ歌とはワンカットなのでその後のことはわからないのです(そのため厳密には「溺死しそう」といったほうがより適切でしょう)。そもそも解釈とは人によって違いがあって構いません。好きな解釈を選びましょう。
飛び降りによる自殺
「水泡」をそのまま水の泡と解釈する場合は以上のような解釈になりますが、これだと少し疑問が残ります。それは上の句では水泡が跳ねると書かれているところです。水泡が水面で破裂するとしても、それをあまり跳ねるとは表現しないでしょう。ふつう泡は割れたり破裂したりするものです。基本的に跳ねるものではありません。「シャボン玉飛んだ」で始まる歌にあるように、シャボン玉が壊れて消えるのはわかりますが、シャボン玉が跳ねるというのは「割れる」「弾ける」「壊れる」と類似ではなく少しかけ離れた表現なので、納得しにくい方もいるかもしれません。
そのため水泡が跳ねるというのを解釈するとき、単に水泡が割れる・壊れる・弾けるといった動きではなく、「水泡が割れることでなにかが跳ねる」もしくは「水泡と一緒になにかが跳ねる」と考えることもできます。ここではたとえば「水泡が割れて水面で水しぶきが跳ねる」や「水泡と一緒に波が跳ねる」といったように見なすことができるのです。
水泡が割れて跳ねる?
前者の「水泡が割れて水しぶきが跳ねる」のように解釈する場合は、依然として海中・海底からの視点で水しぶきが跳ねるのを見ている視点だと捉えることができます。しかし海底にいる自分の視点から水面で跳ねる水しぶきを見るというのは、視点が混じってしまっています。
この場合だと上の句でカメラが「水面」を映していて、下の句で「海底の自分」を映している構成になります。これだとカメラの移動が急すぎて、あまり情景が伝わりにくい構成となってしまっています。
水泡と一緒に跳ねる?
それに対して、後者の「水泡と一緒に波が跳ねる」のように解釈すると、よりスムーズになります。このときのキーワードは「我が身」です。つまり「なぜ波が跳ねるのか?」の理由として、我が身が水面に叩きつけられたからと考えることができるのです。
このように解釈すると、上の句ではカメラが「なにかがぶつかって弾ける水面」を映し、下の句では次第に沈んでいく「我が身」を映すというよりスムーズなカメラワークになるのです。
この内容は厳密には自殺とは限りません。特に本作ではガルルのように人を助けようとして飛び込んで誤って死んでしまうことがあります。しかし自殺でないなら、「水泡とて果敢なき生を跳ねるのを」という上の句の諦観への説明が難しくなってしまいます。突き落とされたりしたなら、のんびり水泡に気を向けているのは不自然で、ふつう突き落とした他者へ怒りや怨みなどを向けるからです。そのため諦観・無常観のようなものを抱えて海に飛び降りた、という解釈がより合致するといえるでしょう。
入水? 飛び降り? どっち?
個人的にはこの歌を見たとき、最初に浮かんだ映像は「飛び降り自殺」でした。しかし読み込んでみると、単なる「入水」のほうに軍配が上がるような印象があります。
「水泡」をどう解釈するか
その理由はやはり「水泡」です。飛び降りのときの解釈のように、「水泡が跳ねる」にフォーカスを当てて解釈するのはいいのですが、それならば水泡ではなく「飛沫(しぶき)」などとするほうが表現としては素直でしょう。泡というのは「泡沫(うたかた)の」という儚さを示す枕詞があることからも、人生の儚さを示すことができます。しかしそれを飛沫の代用とするには、少し無理があるように感じられます。
静と動
飛び降りの解釈をするときの特徴は、ダイナミックであることです。カメラの映像を頭に浮かべてみるとわかりますが、上の句での「水面に叩きつけられる体」というイメージに強いインパクトがあるのです。それに対して入水だと解釈したときは、沈んでいるのか沈み切っているのか浮かぼうとしているのか浮かびつつあるのかわからず、動きのあるものが泡だけという非常に質素な映像になるのです。
いわば「静」と「動」のどちらの解釈をとるかということにもなるのでしょう。静の入水を選んだときは「泡が跳ねる」が解釈の壁となり、動の飛び降りを選んだときは「水泡と飛沫の違い」が解釈の壁となります。
もしくはどちらも誤りであり、また別の解釈があるのかもしれません。
次のエントリ
次回のエントリでは、引き続き輪廻道への和歌について考察していきます。