こんにちは、Caffeineです。
引き続き「ミノニヨクシティ」の考察を進めていきましょう!
今回からは少しの間、「各箱庭から輪廻道へ行くとき、合言葉を鍵として通れるようになる和歌」について考察していきます。
輪廻道へ続く和歌
ゲームの後半では、ミノニヨクシティときのこねくしょんで行くことができる街から「輪廻道」へ行けるようになります。このとき入口には和歌が書かれており、それに対応する合言葉を入力することで、輪廻道へ行くことができます。輪廻道は厳密には「各街から行けるそれぞれの輪廻道の宿」というべきなのか、どの街から行っても同一だということではなく、それぞれ別の宿へと繋がっています。
輪廻道はエンディングには影響を与えません。公式の攻略情報を見ても、エンディングの分岐に影響を与えないのがわかります。そのため攻略のためには輪廻道へ行く必要はありません。
しかし輪廻道には、「自覚」した後「リンネ」として旅する道を選んだ者がいて、いろいろな情報を教えてくれます。また「輪廻道スタンプラリー」を果たすことでより重要な情報のある「凶の都」に行くこともできるため、本作「ミノニヨクシティ」を深く理解するには行ったほうが情報はたくさん得られるでしょう。
ここでは攻略情報ではなく(公式サイトに攻略情報があるためです)、それぞれの宿に繋がる和歌の内容を見ていくことにしましょう。
ミノニヨクシティの和歌
ミノニヨクシティから輪廻道へ行く入口は、「喫茶アムブロシアー」の前の通路の奥にある青いゴミ箱の傍の壁を調べると行くことができます。和歌の合言葉は「ごくらく」です。この合言葉は、真夜中マーケットの情報屋から50円で聞くことができます。
和歌の内容
和歌の全文は以下の通りです。
ミノニヨクシティの和歌の内容:
浮き世にて 黄泉を臨めば 遠からず
されど先にも 極楽はなし
この歌の内容は非常にシンプルでわかりやすいものとなっています。「この世からあの世をのぞいてみても遠くはない。しかしその先に極楽があるわけでもない」という意味合いです。
「浮き世」と「黄泉」とは?
ここで「黄泉(よみ)」という言葉が出てくるので、「ミノニヨク」という言葉の意味を(プレイヤー自身が)ミチビキなどから教わる前に気づくときのきっかけとなるかもしれません。
重要なところですが、この和歌の「浮き世」と「黄泉」が細かくなにを意味するのかはわかりません。なぜかというと、すでにミノニヨクシティなどこのゲーム内の世界がすべて「死人の世界」なのであり、このゲーム内には厳密に「浮き世」と呼びうる世界がないからです(ピギュラが夢として生前の出来事を回想するシーンぐらいしか現世の表現はありません)。
浮き世=現世
通常、「浮き世」とは現世を意味します。もともと「浮世・浮生(フセイ)」という「儚い人生」を意味する言葉があり、これと「憂き世(憂いの多い世のなか)」をかけた言葉とされています。あまり宗教的な意味合いは強くありません。
それに対して「黄泉」は死後の世界を意味します。簡単な言葉では「この世」と「あの世」がわかりやすいでしょう。仏教的な表現では、「此岸(しがん)」と「彼岸(ひがん)」といいます。神道などでは「現世(うつしよ)」と「幽世(かくりよ)・常世(とこよ)」ということがあります。
仏教的な此岸と彼岸は、ゲーム内にも登場する「彼岸花(ヒガンバナ)」が馴染み深いでしょう。この言葉は特に難しくなく、この世界とあちらの世界の間には川があると見なされ、その川から見てこちらの岸を「此方(こちら)の岸」、つまり此岸と呼び、あちらの岸を「彼方(あちら)の岸」、つまり彼岸と呼びます。単に「此(こ)の岸」「彼(あ)の岸」と理解してもいいでしょう。いずれにせよ「この世」「あの世」と大きくは違いません。
ミノニヨクシティの名の由来ともなっている「黄泉」は、神道的な死者の世界をさします。
そしてこの和歌にある「浮き世」が、生者の世界をさします。そのため「この世」と「あの世」という対比と見たとき、「浮き世」と「黄泉」はあまり正確にはマッチしません。
浮き世に対応させて「あの世」などと変えるか、黄泉に対応させて「現世(うつしよ)」と変えるのが素直でしょう。
そのためこの「浮き世」「黄泉」を「この世」「あの世」と見なすべきではないという観点が残ります。しかし今のところは宗教的な見方は無視して、浮き世をこの世、黄泉をあの世と理解するのが非常にスムーズです。
浮き世=生前の世界?
しかし非常に煩雑ながら、「浮き世」の捉え方は2つあります。
まつ1つは、「ピギュラ」ではなく「ユウヤ」たち生者を中心として、生前の世界を「浮き世」と捉える場合です。
素直に言葉をうけとるならば、こちらの考えを採択することになるでしょう。むしろ他の選択肢がないといってもいいくらいです。そのため「生者が死ぬ前に死後の世界に極楽を夢見たところでそんなのないよ」という解釈になります。
浮き世=ミノニヨクシティのある死後の世界?
もう1つは、「ユウヤ」ではなく「ピギュラ」たち死者の魂を中心として、ミノニヨクシティのある死後の世界を「浮き世」と捉える場合です。
これは実際のところ、少し不自然です。なぜなら「浮き世」という表現は、主に生者が行ってきたものだからです。ゲーム内で「浮き世」と表現されているところは、おそらくこの和歌以外にはないでしょう。つまりユウヤのような死者の魂が、生前の世界ではなく今住んでいる死後の世界を「浮き世」と見なす証拠がありません。
しかし「浮き世」という言葉に「憂き世」という意味がある上、ゲーム内でピギュラは様々なお使いのために東奔西走します。ピギュラにとっては死後だろうが生前だろうが、どちらも憂き世だと認識できるかもしれません。
しかも死んだというのに記憶はなくなり、自覚したらしたでショックを受けて暴れ、暴れたら処罰され、輪廻道をさまようことになるのです。場合によってはイザナイにかどわかされることもあるでしょう。
「浮き世」という言葉から「この世」という意味を除いて、より根本的な意味に立ち返ってみると、ミノニヨクシティのある死後の世界も浮き世と捉えることはできます。
このとき浮き世を死後の世界と見ると、「黄泉」もほぼ同一の意味になってしまいます。しかしミノニヨクシティなどの住人でも、裏世界のように「行かない場所」「行ってはいけない場所」があります。そう考えると、「黄泉」を死者たちの魂が処罰されたり消えたりしたときの世界と捉えることもできます。
こうした解釈だと、和歌は「死んだとしても極楽はない。死んだ後でも苦労は続く」という、さらに進んだ諦観・絶望の歌だと捉えることができます。
極楽とは?
続いて下の句に移りましょう。下の句では「極楽」という言葉の解釈が重要になってきます。
ゲーム内では、「極楽」という言葉が他にも登場します。それは裏世界にある「青い森」という隠された場所で、古ぼけた本に書かれた内容として登場します。「極楽」という言葉にフォーカスをあてて一部を引用します。
青い森の古ぼけた本の一部(抜粋):
救っているつもりだろうか。
バカバカしい。
「極楽」など、創れない。
創る必要もない。
推測ではありますがこの本の内容は、「イザナイ」が「ミチビキ」に対するアンチテーゼを唱えている内容だと思われます。ここではその内容は主旨と異なるので、他の部分は省略しました(「イザナイ」の考察→まだ公開されていません)。
いずれにせよこの内容を見ると、ミチビキは死者の魂をミノニヨクシティという箱庭に招き、「自覚」した後も「平穏」な世界に住まわせるようにしており、それがイザナイにとっては「極楽」を創ろうとしているように見える、ということなのでしょう。
この「極楽」は特別な意味で使用されているのか、単に「日本人が一般的に考える極楽」という程度の曖昧な意味で使われているだけなのか、はっきりとしません。つまりゲーム内での一般名詞なのか固有名詞なのかはっきりと区別できないということです。そのためこの和歌の「極楽」に特別な意味があるのかもよくわかっていません。
簡単にこの和歌を解釈するとなれば、「極楽とかそんなのは死後の世界にもないよ」ぐらいのものでしょう。しかし細かく理解しようとすると、「黄泉」が死後の世界を意味するのはいいとしても、やはり「浮き世」がどこをさすのか、という認識がやや重要になってきます。
追記:
作者の方のブログにて、ミノニヨクシティの裏話が公開されており、そのなかに「極楽」の記述もありました。それによるとミチビキの目的は、死後の世界に「極楽」をつくることだそうです。そのためこの和歌の「極楽」も日本人が思い描くぼんやりとした極楽のことではなく、「ミチビキのつくろうとしている目標の箱庭」のことを指していると考えることができます。
このゲームは平穏か?
少しいたずらに拡大解釈をしてみましょう。その試みは、「浮き世」を「ゲーム内のキャラクタが死ぬ前の世界」と捉えるのではなく「プレイヤーたちの住む世界」と捉えてみるのです。つまりあえて「ゲーム内からゲーム外へのメッセージ」と捉えてみるということです。
作者からプレイヤーへのメッセージ?
こう解釈してみると、この歌は「ゲームになにを求めているの? 救いを求めちゃダメだよ。そんなものはないから」という作者からプレイヤーへのメッセージになりえます。
つまり「浮き世」を「ゲーム外のプレイヤーが住むつらい世界」と捉え、「黄泉」を「ゲーム内のミノニヨクシティのある世界」と見て、「極楽」を「ゲーム内で描かれる救い」と解釈してみるのです。
そうすると上の句は「このゲームをプレイしてみてミノニヨクシティが身近に感じられましたか?」と読むことができます。「遠からず」が親近感を意味しうるのです。下の句は「でも極楽とかじゃないんで」という解釈、もっと悪い読み方をすれば「でも描かれてる平穏とか全部嘘ですから」というふうに捉えることもできます。
偽りの平穏
本作には一応のトゥルーエンドが存在します。本作のエンディングは、おおまかにピギュラもといユウヤが自覚するかどうか、また自覚した後にミノニヨクシティに残るかどうかが基準となっています。しかしこの和歌を大きく重く捉えた上でそのエンディングを考え直してみると、「エンディングはただのピギュラ(ユウヤ)のエンディング」なのであり、ミノニヨクシティに真なる平穏・平和が訪れたことを意味しません。
裏世界の青い森では、以下のメッセージが確認できます。
「平穏」は優しい。
「平穏」は嘘つきだ。
本作をクリアして穏やかな気持ちになったり、ピギュラが自覚した後ミノニヨクシティに残って住人たちと仲睦まじくしているのを見て安心したりしたかもしれません。それは本当なのでしょうか? その穏やかな気持ちや安心は、単にゲーム内でそう見えるように演出されているからそう見えるだけであり、実のところそのユウヤやミノニヨクシティの住人たちの感じている穏やかさは、まやかしなのではないでしょうか?
だとしたら私たちはこのゲームをプレイして、なにを得ることができるのでしょうか?
いえ、そもそもゲームは単に表現物であり、エンターテインメントとしてプレイヤーをほっこりさせたり安心させたりしないといけないものではありません。もっと絶望的で、救いが見えないものであっても構いません。作者の方が意図的に演出しているかもしれませんし、わざとではないながらも表出してしまっているものもあるかもしれません。
実質的に、本作のストーリーではそこまで描かれてはいません。しかしこの和歌を深く深く、作者が意図している深さなのか怪しいながらもなおも深く見つめてみると、そういうふうに解釈することもできます。少なくとも私は本作を最後までプレイしてみたところで、このゲームに真なる平穏は見出せてはいません。
次のエントリ
次回のエントリでは、引き続き和歌について考察していきます。今回のミノニヨクシティからのものに続いて、「海底都市の和歌」を見ていきましょう。