こんにちは、Caffeineです。
前回に引き続き、「ミノニヨクシティ」の内容を踏まえた上で私たちプレイヤーの生きる世界について考えを巡らせていきましょう!
この世は本当にこの世か?
「ミノニヨクシティ」をプレイすることで私たちに投げかけられうる疑問提起は、「この世界は本当に死後の世界でないとは言い切れるのか?」ということでした。
本当に「自覚してはいけない」のか?
そして特にミノニヨクシティのある死後の世界では、何度も「自覚してはいけない」というメッセージが表示されます。私たちプレイヤーはこのメッセージを素直に受けとってもいいものなのでしょうか?
恐怖は洗脳の道具として使える
「自覚してはいけない」という言葉の怖ろしさは、「お前は重大なことを忘れている」という不可知への恐怖だというところです。「それを知るとたいそう傷つくぞ」という痛みへの恐怖です。そして「私は知っているが愚かなお前は知らない」という愚かさや不条理さへの恐怖でもあるでしょう。このうち、痛みへの恐怖はどうすることもできません。その痛みを知りたくない、忘れたままでいたいのなら、自覚せずに暮らすのがいいのでしょう。
信用が大切
しかし不可知への恐怖は、これまでお伝えしてきているようにあらかじめ「ミノニヨクシティへようこそ。最初に伝えますが、あなたは忘れてしまっていることがあります」という言葉で、ある程度は軽減することができるでしょう。「彼らは知ってるのに私は知らない」という愚かさや不条理さへの恐怖は、「たしかに私たちは知っていますが、心地よいことではないので知らなくてもいいんですよ」と提示することで和らげることができます。
しかしこれには「教えてくれる人が私たちのことを思って教えてくれている」と信じることが大事です。信用できない相手がそう教えてきても、「いや、騙すためにそういってきてるに違いない」と勘違いされてしまえば、関係は崩れてしまうからです。
不信は亀裂を生む
そうであるにもかかわらず、凶たちやサトリ・ミトリは「自覚してはいけない」と隠すのです。隠すことでより自覚後に凶やサトリ・ミトリに不信が募るにもかかわらず、です。この不信は関係性の亀裂に繋がり、場合によっては自覚した者が暴れる原因となっている可能性もあります。
私はユウヤがミノニヨクシティに残るトゥルーエンドを見て、「そういう選択もあるのかもしれない」とは思いつつも、釈然としませんでした。それはミチビキおよびサトリ・ミトリへの私自身の不信の表れでしょう。ユウヤたちはミノニヨクシティにいて幸せなのだろうか、という問いに対して明確に「間違いありません。幸せに暮らせます」と答えられないことへの不安でもあります。
ノーマルエンドルート6日めの夢
ピギュラが見る夢はいろいろとありますが、6日めの夢はノーマルエンドルートかトゥルーエンドルートかで異なります。ここでは以前考察したノーマルエンドルートの夢でのメッセージの一部を引用しましょう。
自覚してはいけない。
自覚してはいけない。
今の貴方では危険だから。
自覚してはいけない。
貴方はきっと悲しむから。
暴れるから。
自覚してはいけない。
まだ、あの町にいなさい。
自覚してはいけない。
ずっとずっと、あの町にいなさい。
自覚してはいけない。
優しい平穏に甘えなさい。
自覚してはいけない。
脚がまがっても、頭がくだけても、
目ん玉がつぶれても、心臓がとまって。
自覚してはいけない。
脅迫的な圧力
このメッセージを見てみると、非常に強制的な物言いで強い圧力を感じます。これが誰からのメッセージなのかはわかりませんが、神のような視点で語られる上、この夢の最後にはサトリ・ミトリが現れます。このことからサトリ・ミトリからのメッセージだと捉えても、大きく齟齬はないといえるでしょう。
圧力を感じた上でメッセージを否定的にうけとってみると、こうした「上からの命令」がとてもいい迷惑であるとだんだん感じられてきます。たしかにサトリ・ミトリからのメッセージも命令形が多いのです。たとえば「しあわせになりなさい」などです。
誰を思いやっての言動か
こうした言葉は、どれだけ相手を本当に思いやっているのかで意味合いが変わります。たとえば適当に仕事をしている教師に「勉強をしなさい」といわれると腹が立つでしょう。その教師に「君は頭がよくないんだから背伸びをせず地に足をつけなさい。身の程を知って、幸せになりなさい」といわれると、「幸せになりなさい」という言葉もひどく味気なく適当な意味しかもたなくなります。
さて、ミトリとサトリは本当にユウヤのことを考えてこういうことをいったのでしょうか。ひいては凶たち、ミチビキなどもユウヤやミノニヨクシティの住人たちのことを思っているのでしょうか。こればかりは当人の胸の内を吐露してもらうまで厳密にはわかりませんが、私は怪しいと踏んでいます。その理由は、やはり彼らのことを思っている以上に、管理が楽になることを考えているように見えるからです。
この「自覚してはいけない」というのは、管理者としての言葉でしょう。少なくともすでに自覚を経た凶が、まだ自覚していない後輩に与える言葉としても、適切とはいえません。そしてサトリ・ミトリが発するアドバイスとしても無価値です。
ノーマルエンド
ノーマルエンドでは、開店祝賀パーティの最中に祝辞のメモをとりに「おおめだま公民館」へピギュラ1人で向かいます。そのときに「自覚」の絵画が落ち、額縁の裏に小さな紙切れがはさまっているのを見つけます。そこに書かれている内容は、以下の通りです。
小さな紙切れの内容:
平穏は自覚していた。
自分はウソつきだと自覚していた
だけど、平穏は知らないフリをした。
平穏は優しかったから
これでみんな幸せなんだから、これでいい。
これでいいんだ
そしてホポポに呼ばれてピギュラがいなくなると、サトリ・ミトリが現れてこういいます。
ミトリ:
……貴方は七つのお祝いに。
サトリ:
……しあわせになりなさい。
こちらで。
この後サトリ・ミトリは消え、ノーマルエンド「やさしい平穏」としてゲームは終わります。
本作では、繰り返し「平穏は優しい」ものの「平穏は嘘つきだ」と述べられます。これは「自覚していない」という点と、自覚したところで魂は輪廻するのが通常であり、死後の世界で永遠を生きようとするのは、原則から外れることを表しているのかもしれません。場合によっては、死後の世界での政治が乱れていることをも示しているかもしれません。
次のエントリ
次回のエントリでは、引き続き「この世界」について考察をしていきます。