こんにちは、Caffeineです。
先日からNetflixでも配信されている「世話やきキツネの仙狐さん」を見始めました!
私はあまりアニメが得意ではないのですが、今回の「世話やきキツネの仙狐さん」は見始めてみると意外とすんなりと見ることができています。
まだ今期(2019年4月)に始まったばかりのアニメですので4話しか配信されていませんが、おもしろいのでしばらく見てみようかと思います。
個人的所感
- カワイイ
- アガペーを表現したがっている?
- キーワードは「モフモフ」?
- ロリババァ属性
- Ahri出てきそう
- ドン・タヌキ男、やっぱり千葉繁さんだった。←今「北斗の拳」も見てるので。
- ヨーコちゃんは釘宮さんなんですね。
- 「スーパー仙狐さんタイム」はおもしろい
- POVは魅力
- ターゲット層はブラック企業の社畜?
- 「甘えていい」に魅力は感じない
- さほど疲れてはいないから。
- 甘えたがりではないから
- アニメの「お色気」感が苦手?
- 「動物の触り心地」に興味があまりない。←動物に好かれないから?
- 4話のヤンデレ感
- 展開上、「部屋」外の描写は少なくなりそう?
- 先祖の描写≒バトルマンガの主人公の血脈?
OPとED
- いわゆる「アニソン」。
- こうした歌は得意ではない。
- 「歌」というより単に「アニソン」っぽい感じ
この「世話やきキツネの仙狐さん」はコミックNewtypeで連載されているマンガが原作らしいですね。そちらはまだ読んでいません。このエントリを投稿したら読もうと思っています。
私はNetflixで追って視聴しているのですが、仙狐さんの名前は字幕なしで音だけで聞くと「センコサン」とやや奇妙に聞こえるかもしれませんね。
でも仙狐さん、
カワイイな。
そうですね。
どうやら登場する狐キャラで
メインとなるのは
仙狐さんともう1人
だけのようですね。
多ければ
いいってもんでもないんだよ。
俺もモフりたいぜ~!
全体的に「癒し系」のような雰囲気が漂っている作品で、私は特別そういったものが得意だというわけではないのですが、こうしたものが好きな人にとってはたまらないのだろうな、と感じます。
特に主人公の「中野」がブラック企業に勤めるプログラマで、いわゆる「社畜」をイメージして作られているようですね。この「世話やきキツネの仙狐さん」では、作品自体のターゲット層と主人公が重ねられていると感じました。実際に中野のような会社勤めで疲れている人たちをターゲットとした作品なのではないでしょうか。
現在4話まで視聴してみて、やはり独り暮らしで社畜のように働き、貯蓄はある程度あるものの精神的な余裕に乏しく、常食のカップ麺を買う気力もなくしつつある人……まさに中野のような生活をしている人たちをターゲットにしているのだろう、となぜか感じさせられます。
そういえば主人公、
名前が玄人(クロト)
らしいですね。
なんで玄人の
ところにはモフモフが来て、
素人の俺のところには
モフモフが来ないんだあああああああ
あああああああああああああああ!!!
こうもうるさいと
甘やかすどころじゃない
からじゃないですか?
以前は私も主人公・中野のように終電で帰るような生活をしていましたが、今では当時ほどブラックな働き方をしてはいません。
また私は甘えたいという欲求が強くなく、また「モフる」といった願望もあまりないので、私が主人公の立場だったとしても中野のように仙狐さんに甘えるということはないのかもしれません。
そのためおそらく私のようなタイプは、この「世話やきキツネの仙狐さん」のターゲットではないのかもしれません。
全体的に「モフモフ」という言葉をキーワードとして紐づけている作品のようですね。作中で「モフる」のように使われているのはもちろんのこと、OPテーマ「今宵mofumofu!!」とEDテーマ「もっふもっふ DE よいのじゃよ」のタイトルにも如実に表れています。
ただ仙狐さんの「愛」の性質については、興味があります。あれはいわゆるアガペーを表現しようとしているのでしょう。キリスト教圏では神が与えてくれる無償の愛のことを指し、過去にマンガやアニメでそうした概念をとりいれたものもあります。
私は見ていませんでしたが、アニメ「円盤皇女ワるきゅーレ」に「Agape」という挿入歌があったのを思い出します(腰を据えて気持ちを作らないと気楽に聞けない曲ですね)。
この「世話やきキツネの仙狐さん」では、この「モフモフ」とアガペーもとい「甘える」という点が大きなテーマなのだろうな、と個人的には感じました。それにサブ要素を加えるなら、「のじゃロリ」「ロリババァ」といった属性づけもされているのでしょう(こうした名称には常に苦笑いしてしまうタイプです)。
4話まで見てこの「世話やきキツネの仙狐さん」をいくらか見通すことはできそうだと思うのですが、個人的にこうした属性づけがほとんど好きではないのに、なぜ見通そうと判断できたのか自分でもまだよくわかっていません。
実際似たような軽いケモノ要素のあるアニメとして「狼と香辛料」がありましたが、あの作品は途中で見るのをやめてしまいました。OPテーマの「旅の途中」は非常にノスタルジックでいい曲だと思っているのですが、あの少し暗めの雰囲気が合わなかったのか、それともストーリーである旅の道程に興味をもてなかったのか、今なお内省してもよくわかりません。
ちなみに爆発的な流行となった「けものフレンズ」は、1期めのアニメだけ見ました。あの純粋な世界の「フレンズ」に自分はなれないと感じさせられたので、あまり流行に乗ることはできませんでした。
ところで3話から劇中劇の「稲荷少女ヨーコちゃん」の映像が挿入されていましたが、あれはあれでもう少し詳しく見てみたいですね。ちょうど今Netflixで「北斗の拳」も見ているところなので、ドン・タヌキ男を千葉繁さんが演じているというのはすぐにわかりました。あの笑い方やっぱりすごくいいですよね!
EDを見ながらキャストを確認しているときに、その劇中劇のヨーコちゃんを釘宮さんが演じているのだと初めて気づきました。見返してみるとすぐに「確かにそうだ」とわかったのですが、千葉さんの登場にテンションあがったのかスルーしてしまっていました。
本編とは違うサブコンテンツとして、「スーパー仙狐さんタイム」もおもしろいなあと思って見ています。やはりあれはここ数年のあいだ注目され続けている「VR」との関連性を感じてしまいます。より具体的にはVRもこの「スーパー仙狐さんタイム」も、POV(Point of View)とも呼ばれる「主観視点」を活用したものでしょう。
けもフレが流行った当時に「One Room」という「主人公=視聴者」というタイプの5分アニメが放映されていましたが、それと似たようなものですね。
この手のPOVは、ゲーマーとしてもサブカル好きとしても興味の尽きないところです。FPSゲームはプレイヤーが主人公となる顕著な例ですし、ギャルゲーなどのノベルゲームも主人公=プレイヤーであるというシステムが特徴的です(「かまいたちの夜」などそうでないノベルゲームもありますが)。
POV視点というのは、非常に強みのあるシステムです。どのようにかというと、没入感が非常に強いのです。
私はいわゆるBethesdaゲー(ベセスダゲー)と呼ばれるTESシリーズやFalloutシリーズが好きなのですが、このシリーズの特徴は主人公が無名で最初は何者でもなく、プレイヤーが名前をつけて操作を始め、FPS(POV)視点でゲームを進めながらプレイヤーが行動を起こしていくことで、主人公がどんどんとプレイヤーの名づけた「自分」に近づいていく点にあります。
FFでは基本的に主人公の名前は決まっていますし、名前を決められるドラクエでも外見は既に決められています。外見もキャラクターエディットで編集して主人公を自分にしていくというのは、没入感の強い体験に繋がっていきます。
しかしこのPOVをアニメにとりいれるときは、やはり必ずしも成功するわけではないことが予測できます。ゲームはプレイヤーが行動を選択できますが、アニメではそれができません。あくまでアニメは「すでに制作されたコンテンツを流すだけ」に過ぎません。アニメとゲームの決定的な違いは、「介入できる」かどうかという点に集約されるでしょう。
私が昔プレイしたノベルゲームで印象に残っているものに、PS2などで発売された「Ever17 -the out of infinity-」というものがあります。一見するとギャルゲーのような雰囲気なのですが、実際には恋愛要素はほとんどありません。いわゆるループもののひとつで、何度も周回することでストーリーが変化するタイプのノベルゲームです。
このゲームでは、主人公たちが海中のテーマパークに閉じ込められるところから始まります。脱出経路がない水中の隔離された施設から、なんとか逃げ出そうというのが(とりあえずの)ゲームの目的です。そしてこのゲームの主人公は「倉成武」という名前がついたキャラクタなのです。
しかしこのゲームをプレイしている最中に感じる謎は、2週め以降に始まります。2週めが始まると主人公は無名の「少年」に移ります(少年は本人も記憶喪失で名前がわからないので、みんなから「少年」と呼ばれるようになります)。他の登場人物は同じなのに、主人公だけが変わってしまうのです。しかも2週めのストーリーも、海中に閉じ込められて逃げ出そうとする、という同じようなものなのです。「なぜ主人公だけが変わるのか?」が大きな謎として残されるのです。
このゲームの醍醐味は、最後のどんでん返しにあります。ミステリとして最後にそれまでの伏線をすべて回収するタイプのストーリーなのです。難点があるとすれば、中だるみの強い作品であるという点でしょう。しかもこのどんでん返しというものが、最終的には倉成武というキャラクタや少年というキャラクタではなく、コントローラを握っているプレイヤー自身に訴えかけてくるというものなのです。
こうしたものは実は目新しくなく、「第四の壁」と呼ばれるシステムを利用しています。この考え方は古く、ゲームやTVが開発されるずっと昔、劇場で演劇が行われていた時代から存在するようです。
この第四の壁とは、有り体に述べると「あっちとこっちの世界の境界線」です。つまり作品のなかと作品の外を隔てる壁です。よくあるネタに「アニメ(ゲーム)の世界に入りたい」というものがありますが、それができないのは絶対にその壁を乗り越えることができないからです。
しかし作品のなかでキャラクタが視聴者やこちらの世界に言及することで、その第四の壁を壊すときがあります。簡単な例では、ドラマ「古畑任三郎」で劇中のキャラクタである古畑任三郎が視聴者に語りかけてくるシーンです。もしくはアニメ「サザエさん」でサザエさんと視聴者がジャンケンをするというのも、そのひとつと捉えることができます。
今回の「世話やきキツネの仙狐さん」の「スーパー仙狐さんタイム」のようなPOVアニメというのは、今のところまだ実験的な段階でしょう。こうしたコンテンツは、「第四の壁を超えられない劇中キャラクタがずっと視聴者に向けて(できていないにもかかわらず)コンタクトをとりつづけている」という状態です。いいかえると、「ドラクエで移動キーをずっと押して壁にぶつかりつづけてドンドンというSEがなりつづけている状態」なのです。
一昔前に、電影少女(ビデオガール)というマンガ作品がありました。DVD以前のビデオカセットが当たり前だった時代の作品で、ビデオのなかの女の子が画面から出てきて主人公と恋をする、という作品です(ラブコメ版貞子とでもいいますか)。これは第四の壁を壊す一種の目論見ではありますが、疑似的に過ぎません。本当に第四の壁を壊そうとするなら、その女の子が「主人公」のもとに来るのではなく「読者」のもとに来なければいけません(貞子が視聴者のもとに来ないのと同様に疑似的なのです)。
こうした「劇中のキャラクタのもとに第四の壁を壊して現れる」というのは、しばしの間はおもしろいと感じられます。しかし改めて考えてみると、私たちはもはや貞子が呪いのビデオとして画面から出てくることはないとあまりに熟知してしまっています。今、あの呪いのビデオに震えるようなことはもはやありません。ビデオという存在が廃れてもなお貞子は結局襲いに来ることはなかった、と知っているからです。それと同様に、いくらがんばってPOVのアニメコンテンツを作ってみても、どうあがいてもそのキャラクタは私たち視聴者に語りかけているのではなく、ただそう仕向けられた虚像に過ぎないことを、常に私たちは思い知らされるのです。思い知らされ続けるのです。
アニメが再生されているときに私たちがトイレに立てば、用を足している間アニメは再生され続け、流して戻ってきても再生され続けます。アニメ内のキャラクタが、私たちがトイレに立ったことに言及することはありえません。
これがPOVコンテンツの難しさです。
少しばかりお話が過ぎたようですね。「世話やきキツネの仙狐さん」の話から、POVコンテンツの話にそれてしまいました。
私はPOVコンテンツに強く興味がありますし、幾許かの明るい未来も感じています。しかしPOVコンテンツが常に孕んでいる問題も、少しは理解しているつもりです。
この「世話やきキツネの仙狐さん」ですが、1クールの作品……なのでしょうか、ひとまず通して見てみようかと思います。今回は所感で羅列したことをすべて語ることはできませんでしたが、次の機会があればそちらで語ることがあるかもしれません。