こんにちは、Caffeineです! 少し怖がりな「センセー」と注射大好き「ジョシュ」、カラコロを見守る温かな2人に焦点を当てていきます!
センセー・ジョシュの真実
センセーとジョシュは一緒に行動することが多いのですが、一般の物語のように恋愛感情があるのかは確認できません。あくまで職業的な関係性かもしれませんが、いずれにせよ彼らの素性は謎に包まれています。
カラコロ自覚時の影
最初に結論を述べておくと、はっきりいってこの2人ことはほとんどわかりません。ホポポやヒロのように情報が少ないのです。
「センセー(先生)」「ジョシュ(助手)」という職業・立場が名前になっているところからも、素性の不確定さがわかります。センセーもジョシュも生前の情報や自覚しているのかどうかなどの情報がまったくなく、幻などで登場する機会があるとすればカラコロが自覚する4日めのイベントのとき、センセー・ジョシュとおぼしきシルエットがショータの病室の前に立っているところくらいです。
ほとんど情報がないため推測するしかありませんが、私が挙げられる推論は3つあります。
①なんらかの原因によって死んだショータの病院の先生と助手。
②カラコロ(ショータ)がつくりあげた架空のコピー。
③モブ。
それぞれ順番に考察していきましょう。
可能性①:なんらかの原因で死んだ先生と助手
まず①に関しては、一番素直な考え方です。他のミノニヨクシティの住人と同様に、すでに死んでいる人であるという捉え方です。
この場合、センセー及びジョシュについて生前の情報がなんらないことに関しては、どうとでも理由づけをすることができます。特に設定を考えていなかった、設定をつくるのが面倒だった、つくる時間がなかった、考えてはいたがゲームに登場させていないだけ、etc……
素直で常識的な説
死因はともかく、センセーとジョシュがカラコロ(ショータ)を気にかけているのは、やはり生前のショータを看護していたのがこの2人だったからと考えるのが一番素直でしょう。
この説が、常識的かつ一般的な考え方なのかもしれません。余計なことを考えず、「フリーゲームだしこんなもん」と捉えることで、ひとまずすべての答えはかたづきます。しかし味気ないといえば味気ないものです。
同時期に近い場所で死んだとは限らない
しかしそうなるとやはり2人がどのように死んだのかという状況がとても不思議に感じられてきます。ショータが死んだ原因は母親が疲れたからと説明できますが、センセーとジョシュに関してはショータと同時期に死ぬというのが不自然に感じられるのです。
しかしここに1つの落とし穴があります。なんら確証があるわけではありませんが「同時期」という設定はどこにもないのです。つまりミノニヨクシティにいる住人たちは、すべて同時期に死んだ人たちであるのかどうかわからないということです。
それどころかユウヤやショータのように日本で死んだとも限りません。
日本人名でない住人がいる
ジェミニやジーキルのように、自覚しているのに明らかに日本人名でない住人がいます。ガルルやヤコフのように自覚していなさそうな住人であれば、ピギュラやカラコロのように名前が生前とは変わっている可能性はあります。しかしジェミニやジーキルなどは自覚している様子が強いので、それが本名である可能性がとても故意のです。
そうだとすれば、ジェミニやジーキルが日本人でないと想像するのは難しくありません。その場合、実のところ「なぜ住人たちは日本語で会話しているのか」という疑問が発生しますが、フリーゲームで言語の面を細かく追及するのは、さすがに酷だといえるでしょう。
生きていた時代がまったく違う住人がいるかも?
ひょっとしたら今の私たちと同じ現代の日本で亡くなった人たちがいるかもしれませんし、数百年前の中国で死んだ人や、千年前にヨーロッパで死んだ人、もしくは数万年後の未来のアメリカで死ぬ人などもいるのかもしれません。
そもそも時間や空間などは現世のものです。死後の世界にそうしたものがあるかは定かではありません。
そう考えると、ショータが死んでから何十年も経った後で、ずっとショータのことを気に病んだまま生き続けたセンセーとジョシュが亡くなり、その後ミノニヨクシティに来たのかもしれません。人はいずれ死ぬものですから、時期を無視することができるのなら彼ら2人が死んでいることになんら不思議はありません。
可能性②:架空のコピー
続いて②の「カラコロがつくりあげた架空のコピーなのではないか」という考えに移ります。この説は、カラコロの真実の「ノーマルエンドでの野菜売り」の項目でも少し述べています。
野菜売りの3人
野菜売りの3人はいずれもカラコロ(ショータ)の幻に登場する名前がつけられていて、特に移動することもなく、カラコロ(ショータ)に関わること以外にミノニヨクシティでの活動をしていません。
そのため野菜売りたちは、カラコロ(ショータ)がつくりあげた架空の存在だと見なすことができます。カラコロが消えるノーマルエンドルートでは、一緒に野菜売りの3人が消えてしまうのもその論拠の1つです。
カラコロと一緒にいることの不自然さ
野菜売りの3人について他の住人同様「死んだ人」と考えてみると、同じ病院の子供たち3人がすべて同時期に死んでしまっているのが不自然に感じられます。その場合は病死より、他殺やパンデミック(伝染病の流行)を疑ったほうがいいかもしれません。
しかもショータだけはカラコロとして自由に動き回れる身でありながら、他の3人の子供たちはなぜか動けない状態です。これは同じ病院にいた患者の死後の扱いとしては、とても不平等なのではないでしょうか。
この不平等さのため、野菜売りの3人に関しては、実際に死んだ子供たちではないと考えるほうが素直です。その場合、ショータが生前に顔なじみだった(仲良くしていたかもしれない)子供たちを、生前の記憶をもとにつくりあげたコピーであると考えることもできるのです。
やはり同時期ではない?
もちろんここでも「同時期に死んだ」のかわからないので、もし別の時期に亡くなっていたと考えることもできます。しかしそうすると、今度はカラコロと野菜売りの4人が死後の世界で一緒にいることの説明がなかなかつかないのです。
幼いころ同じ境遇で過ごした人たちでも、大人になればそれぞれ別の大切な人が現れてもおかしくはないはずです。10歳のカラコロのように幼ければ、思春期まで成長していくなかで誰か気になる異性などが(たとえば病院の関係者などででも)現れているかもしれません。
野菜売りも死者だと考えるのは不自然
こうして考えてみると、たとえ幼いときに似た境遇で出会った4人の子供たちがいたとして、同時期に死ぬというのは不自然で、同時期ではなかったとしても4人それぞれがいつまでも変わらず思い合うというのは、とても稀なのではないでしょうか。
いずれにせよ、野菜売りの3人も他の人たちと同様に死んでいると考えることができますが、ショータが生んだコピーだと捉えることもできるのです。
センセーとジョシュの場合
話をセンセーとジョシュに戻しましょう。もし野菜売りの3人がコピーであるならば、センセーとジョシュもコピーであると考えることはまったくおかしなことではありません。
ショータが連れてきたかった人?
①の現世に実在した先生と助手が亡くなってミノニヨクシティに来たという説では、センセーとジョシュがショータを気にかけていたからという視点で見ていました。しかしこの②のコピーという考え方では逆で、ショータがセンセーとジョシュを一緒にミノニヨクシティに呼びたかったのではないか、という視点で見ることになります。
ショータが、たとえば「1人だと寂しい」といった理由などで誰かと一緒にミノニヨクシティに住みたいと考えた場合、もし呪いなどの「道連れ」とは違った形で、実在する人物のコピーをショータ自身の記憶などからつくりあげることができたのなら、センセーやジョシュといった死因が不明の住人がいることはまったく問題がありません。なぜなら実際に死んだ人物ではなく、単なるコピーだからです。
「コピー能力」という特異性
この説はそれなりに整合性がつくのですが、それでも不自然な印象が残るところがあります。まず「なぜショータはコピーをつくれたのか?」という能力自体への疑問です。誰もが得られる能力なのか、それとも素質などがあるのか、能力に関する疑問はいろいろわいてきます。
次に「なぜ他の人にはコピーがいないのか?」という問題も残ります。特殊な能力であれば、なんらかの説明がないと、納得できない点となります。最後に「なぜ野菜売り3人とセンセー・ジョシュ2人だけで満足できず5人もつくったのか?」という多さも不可解です。
総評すると、コピー能力が「カラコロだけに許された特殊なものである」という印象があり、「他の人はできない上にカラコロだけ5人もコピーを作成できてしまっている」という非常に大きな偏りが見られるのです。これがコピー説の弱さです。
可能性③:モブ
最後の③センセー・ジョシュがモブであるという考えは、2人の名前が職業・立場の名前に過ぎないというところから来ています。
実は「センセー」「ジョシュ」は何人もいる?
たとえば樹海クラブの「メンバー」、ビル街の「サラリー」「オーエル」、赤影タウンの「ジョシ」「ダンシ」「ネオン」などのように、名前とグラフィックが同じキャラクタがいます。これらのキャラクタはそれぞれ固有名詞をもっておらず(もしくは単に表示されず)いわゆる脇役としての重要でないモブという存在だと捉えることができます。
「センセー」及び「ジョシュ」も、これと同じなのではないかという推察です。この説を大きく採択しにくいのは、ゲーム内で「センセー」「ジョシュ」というキャラクタが他に存在しないことです。モブというのは名前がなかったり、あったとしても特別ではないよくある名前がつけられていたりするものです。しかし「センセー」「ジョシュ」は他に同じ存在がいないため、名前が特徴的ではないにもかかわらず「特別」になってしまっているのです。
自他の違い
この説をむりやり押し通すなら、「たまたま他のセンセー・ジョシュが見当たらないだけ」と捉えることができます。
いわば私たちの両親のようなものです。「親」という存在は人間に限らず誰にでもいますが、私たちの両親は世界に1人ずつしかいません(生物学的な血縁関係の両親という意味です)。「人間、ひいては動物の個体がそれぞれ個別にもつ生物学的『両親』」と、今こうしてこれを書いている私やこれを読んでいるあなたの「自分を産んでくれた両親」は異なります。
この違いは、自他の違いです。自分と他人の違いです。自分にとっては自分が大事だけれど、他の人はその人自身のことを大事にする、といった自分と他人の違いです。私たちにとっては自分の(生物学的)両親は1人ずつしかいないので大事ですが、他の人からすれば大して重要ではない「ただの誰かの両親」に過ぎません。
「個別化」
それと同様に、この「ミノニヨクシティ」というゲームでは、モブであるはずのセンセーとジョシュが1人ずつしか登場していないので、私たちは「自分がプレイしたときに登場した唯一無二のセンセーとジョシュ」という特別な個体だと勘違い(個別化)してしまっているのだ、と考えることができるのです。
実際にこのミノニヨクシティの他の箱庭を広く見てみると、実はそれぞれセンセーとジョシュという似たような存在がいくらでもいるのかもしれません。モブだとすれば、他に何人いてもおかしくありません。
しかしこの考えは単に名前がきっかけになっているだけですので、おもしろい考えではありますがやはり信憑性は高くはないでしょう。
まとめ
そもそも確たる情報がないので推論を重ねただけでまとめるもなにもないのですが、結局のところセンセーとジョシュについてはほとんどわかりません。
推測するにしても、さすがに「埒が明かない」といった状況です。頭が心電図のモニターになってカタコトで話すセンセーが、自覚しているのかいないかもよくわかりません。この2人に関しては、好きに解釈してしまっていいのかもしれません。
次のエントリ
次回のエントリでは、声が大きく豪快なパン屋の「ガルル」について考察していきます。