「ミノニヨクシティ」#30【考察】幻とは? 凶新聞とは? そしてなぜ自覚してはいけないのか?【ネタバレ】

ゲーム考察
「ミノニヨクシティ」の考察です。幻・凶新聞など周縁的な事柄を考察していきます。

こんにちは、Caffeineです。
今回は「ミノニヨクシティ」の考察における情報源である「幻」や「凶新聞」について考察していきます!

前回のエントリ(【考察】サトリ・ミトリの真実・後編):
「ミノニヨクシティ」#29【考察】人々の真実を探る サトリ・ミトリ編(後)【ネタバレ】
「ミノニヨクシティ」の考察です。凶より上位である「サトリ」「ミトリ」の統治能力について、やや批判的に考察していきます。 こんにちは、Caffeineです! 前回に引き続き、「ミノニヨクシティ」のサトリ・ミトリについて考察を進めていきます...

幻とは?

このゲームにおける「幻」とは、いったいなんなのでしょう。このゲームの深くに根差したものながら、これに対する答えはなかなか見つけられないでしょう。

「魔法」の言い訳と似ている

いわばRPGの魔法のようなものです。「魔法ってなに?」に対して、「……魔法は魔法だよ」と答えるしかないようなものです。架空のゲームに対して理解を深めようというとき、このようにどうしようもないところに行きついてしまうことはときどきあります。Minecraftで岩盤に行き当たるようなもので、それ以上は進めません。

そうなると結局「ゲームだから」「創作物だから」「架空の話だから」という点に帰着してしまいます。それはしかたないところです。実際にそうなので、事実に回帰したところでそれをはねのけることはできません。しかしそれはそれでそっけないので、寂しい気もします。

不安定な情報源

本作に関しては、これまでの考察、特に住人の真実編を進めるにあたって、幻の情報を盲目的に引用し続けてきました。幻がどういうものであるのか定義がしにくいのならば、これまでの考察が砂上の楼閣のごとく、とても不安定なものになってしまいます。

実際のところ、私にはこれまでの考察をより堅固にするような妙案はありません。すべてがあやふやな考察なのです。「信じるか信じないかはあなた次第」という言葉が一時期はやりました。あまり好きな表現ではありませんが、それと似たような状態です。

私はできるだけの情報を提示していますので、それを見てプレイヤーの方々がそれぞれで判断してください。私は私で自分なりの答えをもってはいますが、それが万人にとっての答えであるべきだともいいません。少なくともこのゲームの幻が定義できない以上、これまでの考察が空論だといわれたとしても私は受け入れるしかありません。

凶新聞とは?

凶新聞は最終盤に行けるようになる凶の都で、突然現れる貴重な情報源です。しかし凶新聞というものがいったいどういった新聞なのか、それ自体に関する情報はありません。

凶新聞が一般的な新聞とはどう違うのか判断は難しいのですが、いわゆる私たちが目にする市販されている読売・朝日・毎日などの新聞とは違うのかもしれません。死者に関する出来事が「死神」もしくは「神」のような視点で、人間社会の裏を見透かした上で書かれているのであれば、警察が冤罪をわざと起こしているのかもしれないという「推測」ではなく、わざと起こしているのだという「事実」を掲載していると考えることもできます。

もしくは単に生者の世界での出来事を扱うだけではなく、やはり死神としての視点で「死者の魂を集める」もしくは「集まった死者を適切に管理する」という目的のもと、こうした情報を集めているのかもしれません。

しかしいずれにしても凶新聞に関する情報があまりに少ないため、信憑性の低い推測に過ぎないと考えるしかないでしょう。

「自覚してはいけない」

ここまで住人の生前など様々なことを考察してきましたが、みなさんは凶たちやサトリ・ミトリについての印象はどうでしょうか? トゥルーエンドの穏やかさやミノニヨクシティの住人の優しさから、やはりあのエンディングこそ素晴らしいエンディングで、そこへ導いてくれたミチビキ含む凶やサトリ・ミトリは正しいと感じるでしょうか。

私は彼らを信用していません。トゥルーエンドから落ち着いた雰囲気は感じられるものの、どちらかというとイザナイのようにその落ち着きは偽りの平穏だと見なしています。その理由は、ミノニヨクシティを含めた死後の世界の「理」がはっきりとしておらず、サトリ・ミトリや凶の行っている統治に疑いをもっているからです。

より細かくいうと、死後の世界の「理」とも受け取れる部分が、サトリ・ミトリが秘密主義であるために「サトリ・ミトリが秘匿している」と疑われるようになっているのです。典型的なところでは、「死者は生前の記憶を失う」という点です。人は死ぬとそうなるのかもしれませんが、サトリ・ミトリがなにも語らないために「サトリ・ミトリが記憶を消しているのでは」と疑えるようになってしまっているのです。

真実には慣れてしまえる

これまでミノニヨクシティの住人の真実などの考察を続けてきました。「真実」というのは不思議なもので、慣れてしまうとどうということはないものになってしまいます。たとえば「サンタクロースは存在しない」「魔法は存在しない」「憧れたヒーローは存在しない」のようなことも同様です。

慣れてしまえば、それが当然になってしまいます。慣れることが悪いことだとは思いませんし、逆に必ずいいことなのだとも断言はしません。ただこのミノニヨクシティというゲームについて考察する上では、真実に慣れていくことで、私は次の段階に移りました。それは、なぜ死者たちに事実を教えなかったのか、という疑問です。

ホラーより政治的不確かさが目につく

そういうところに気を向けていくと、「自覚してはいけない」という言葉からだんだんとホラー要素がなくなっていきます。むしろそのように「自覚してはいけない」と命令してくる者の驕りや不遜さが見えてくるように感じられるのです。

少なくともゲームの主人公であるピギュラは自覚してユウヤになり、ミノニヨクシティに留まることができます。そのエンディングを見た後では、「自覚してはいけない」という言葉に価値がなかったのだと私たちプレイヤーは気づきます。

この「自覚してはいけない」という言葉は、自覚していない死者の魂を思い遣っての言葉なのでしょうか? この点については、プレイヤーの方々によっていろいろ意見が分かれるところかもしれません。

「自覚されてはいけない」

このゲームの「死者の世界」という真実に慣れ、その世界の政治的な不確かさが目についてきたとき、だんだんと感じるようになるのは、「自覚してはいけない」は単に「自覚されてはいけない」だったのではないか、という推測です。自覚すると死者の魂にとって不利益があるのではなく、自覚されると統治者に不利益があるという捉え方です。

これもいうなれば「私の答え」なのでしょう。

次のエントリ

次回のエントリでは、ミノニヨクシティの住人たちが「精神操作」を行われている可能性があるということについて考察していきます。

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