こんにちは、Caffeineです。
今回は「Schizophrenia Simulation」のちょっとした攻略情報や作品のロール(役割)について考察しています!
今回は攻略情報を掲載していくので、ネタバレありとなります。
ご注意ください。
どんなところがオススメ?
ふつうの悪いところが本作の「いい」ところ
極 – Professional
「Schizophrenia Simulation」について、さらにより踏み込んだ情報を考えていきましょう。
ロール(役割)
<社会的>統合失調症の感覚を追体験できる
本作「Schizophrenia Simulation」のコンセプトは、作品のタイトルから理解できるように「統合失調症を追体験すること」です。
社会的なロールを考えると、このコンセプトは現代の世のなかでは非常に有意義なものです。昔から精神障害には偏見が多いものです。そうしたなかで本当に統合失調症の理解に役立つのならば、全世界を通して意義のある作品となるでしょう。
これで正しいのかは批判も必要
しかし当然ながら、こうした作品には批判がつきものですし、その批判はしっかりと存在するべきでしょう。前回のエントリで述べましたが、シミュレーションは本物にはなりえません。本作を通じて私たちは「これが統合失調症の感覚なのかもしれない」と憶測することはできますが、シミュレーションはどうしてもシミュレーション以上にはなることができないので、「これが統合失調症の感覚に違いない」と確信することはできません。
そのため本作の表現の質に関しては、批判が起こって然るべきです。もちろん批判と非難や中傷は明確に区別すべきで、建設的に「統合失調症の感覚を再現する」というコンセプトをより正確にするための意見などが交わされることが望まれます。
<歴史的>シミュレーションの原点に立ち返る
歴史的にゲームの観点からロールを考えてみると、この作品「Schizophrenia Simulation」はシミュレーションというものの原点に立ち返った作品だといえます。
現在では「〇〇 Simulator」としてゲーム作品が多くリリースされており、シミュレーターという言葉が単にゲームの代名詞として用いられるなか、本作のコンセプトはシミュレーションというものの本質に立ち返ろうとしていると考えられます。
シミュレーションの原点は「追体験」
シミュレーションのそもそもの意義は、「仮想的な実行」です。
たとえば地球の人口をシミュレートして将来的にどう推移していくのかを計算するのは、将来のことは実際に起こってみるまでわからないものの、ためしに計算してみて予測に役立てようという試みです。また日本では「ライフゲーム」として知られる「Conway’s Game of Life」は、生物の生滅をシミュレートした興味深いシステムです。
これを非常に大きなマクロの視点ではなく、「主人公」というようなミクロな個人を設定したゲームなどの作品で行うと、実際には私たちはその主人公を操作しているのに過ぎないのに、仮想的にその主人公の行動を追体験していくことになっていきます。
むしろそもそもの意義である「仮想的な実行」も、拡大解釈すれば「追体験」だといえます。追体験という言葉には、すでに「仮想的」という意味が含まれており、作品を追体験するということは「実行」なしには行えません。そのシミュレーションの意義「仮想的な実行」は、「追体験」とかなり似ているといえます。
そうした観点でとらえると、本作「Schizophrenia Simulation」はシミュレーションの本質的な部分を突いているといえます。
ゲームの基本も「追体験」
実際は多くのゲームの基本も追体験がとても重要です。厳密にはTVゲーム(ビデオゲーム)、そのなかでもRPGなどに特に顕著なのですが、現在プレイできる多くのゲームの価値として「現実では体験できない人生を仮想的に体験することができる」という点があります。
JRPGと呼ばれる日本のRPGでいうと、ドラクエやファイナルファンタジー、テイルズシリーズなどでは「プレイヤーの介入なしに制作サイドが勝手に作った主人公」を操作します。そしてストーリーもプレイヤーはほとんど介入することができずに、制作サイドが作ったシナリオをクリアまで進めていくことになります。
これは疑似的な「制作サイドが作った主人公の人生の追体験」に他なりません。ドラクエなどでは主人公の名前が自由に決められたりしますが、たとえば古典的なところではドラクエ5の「ビアンカ・フローラ(・デボラ)論争」があり、いうなればここで「結婚しない」もしくは「他の相手(LGBTが話題の昨今では、女性とは限らない)と結婚する」という選択肢を与えられない限り、「制作サイドが作った」という部分は変わりません。
これに対してキャラエディットがをはじタイプの洋ゲーRPGの自由度の高さを挙げてみると、たしかに古典的JRPGに比べると格段に自由で、様々な選択肢を与えられています。
(むしろ制限が除かれているといったほうが正しいのかもしれません)
しかしそうはいっても「制作サイドが作った世界」のなかで、たとえ大まかであったとしても「制作サイドが作ったストーリーラインやクエスト」に沿って進めることになる以上、やはり「作られた」もので「古典的JRPGに比べると『制作サイドに強制されている』度合いが低い」という程度の問題でしかないとわかります。
ただ少し考えてみるとわかるように、私たちがゲームをプレイするのはストーリーやその世界が楽しいからでもあります。つまり「制作サイドの作り方が巧ければいい」というだけの問題だともいえます。そう捉えると「制作サイドの思惑として強制的に追体験させられている」とうけとるか、「制作サイドのおかげで自主的に追体験できている」とうけとるかの違いに過ぎないのかもしれません。
いずれにせよRPGのほとんどは「追体験」が基本となっています。そもそもRPGとは「ロールプレイングゲーム」であり、ロール(役割)をプレイ(担う)ゲームというものであるので、用意されたRPGをプレイする以上はロールから抜け出すことは原則的にできません。
そう捉えてみると、本作「Schizophrenia Simulation」のように「追体験」という原点に立ち返るというのは、ゲームを捉え直すこともできる非常に有意義なことなのかもしれません。
<技術的>歪みを活用
技術的なロールを考えてみると、「Schizophrenia Simulation」は視覚的な歪みというものをとても有効に利用していることが特徴として挙げられます。
通常「技術」というと、人間にとって有意義なものを投資によって開発し、それを社会の貢献のために利用していくことだと捉えられがちです。しかしながら本作では、通常は忌避される「不具合」のようなものを活用して、それを作品の特徴にまで昇華させています。
これは薬と毒のような関係です。毒と薬というものは明確に区分できるようなものではなく、人間にとっておおむね役立つ成分を薬と呼び、人間にとっておおむね害となる成分を毒と呼んでいるだけのことです。
それと同様に、技術とは「現象を利用する」ことが大元なのであって、人間にとっておおむね役立つ現象のみを「技術」と呼び、人間にとっておおむね害となる現象を「不具合」と呼ぶのは実のところ狭量なのではないかと気づかされます。
そのような観点から見てみると、TVゲーム(ビデオゲーム)のようなものを開発するときは、「たとえ『バグ』と呼ばうれるものでも活用できるのではないか」と立ち止まってみるのは、決して無駄ではないでしょう。
実際、昨今では「バグ的表現」がホラー演出として使用され、それが非常におもしろい表現だと認識されるようになってきています。
これから先、新しい表現をつくっていくのであれば、そうした「悪いとされているもの」でもあえて有効活用していくふうに考えるのもおもしろいかもしれません。
いわれて思ったけど、
マイナスをプラスに変えるのって
すごいよね。
頭も目も痛くなったけどな。
心理学的な言葉で「リフレーミング」
というものがあります。
既存のものの「フレーム」を壊して
頭のなかで再構築することです。
これは自分のなかで認識を変えるだけで
物事の短所を長所に変えられる方法です。
へー、なんかおもしろそう。
本作は見事なリフレーミングを
感じることができる作品でしょうね。
エンディングの分岐
それではネタバレありとなりますが、2つあるとされてるエンディングの分岐についての攻略情報をまとめておきます。
金庫のロックが分岐条件
エンディングの分岐は、最初に目覚める主人公の部屋にある「金庫」のロックを開けるか否かが条件のようです。冒頭ではヒントがなく、開けることができません。しかし作品の最終盤で部屋に戻ってくることになり、金庫のロックを解除する時間を与えられます。
このときに主人公の部屋には不気味な絵画と苦しむような人物が登場しており、それと一緒に不可思議な幾何学的な図が宙に浮いています。金庫のロックを開ける数字は、この幾何学的な図が答えを示しています。
これをしっかり観察してみると左から順に「八角形・四角形・三角形・円」が並んでいます。それぞれの図形の頂点の数を並べると「8430」となります。これが金庫を開けるコードです。
このコードを入力して金庫を開けると、エンディングに突入します。
またコードを入力せずに時間が過ぎると、あぐらをかいたまま宙に浮いた赤く光る像のようなものが部屋のなかへゆっくり侵入してきます。これに触れると、別のエンディングを迎えることができます。
どちらがグッドエンディング?
本作を「ゲームではない」と捉えると、エンディングについて評価するのもなかなか難しいのですが、金庫を開けたときは「自殺」をして「頭のなかの悪魔を殺す」というエンディング、像に触れると「悪魔が勝つ」ことになり「永遠に自我が封印される」というエンディングを迎えることになります。
一般的にゲームではエンディングの良し悪し、質の良し悪しではなく「グッドエンディング」か「バッドエンディング」かがとりざたされますが、本作ではどちらが「グッド」と呼べるのかわかりません。むしろどちらもグッドと呼びえないものを作るのが、作者の意図だということもあるかもしれません。
なかなか難しい作品だよね。
そうか?
内容はわかりやすかったと思うぞ。
そうじゃなくて、扱いがね。
ゲームじゃないってなんだろう、とか。
そうですね、普段は私も
ゲームを紹介している身ではありますが、
この作品については作者の意図を
重視する他ありませんからね。
「ゲームじゃない」って頭で認識しつつ
「ゲームとしてプレイしてるんじゃないか」
ってずっと考えてる自分がいるような感じ。
これをどこかの企業が作れば
よくも悪くも
もっと波紋が広がったでしょうね。
さいごに
「Schizophrenia Simulation」は、非常に興味深い作品となっています。プレイをしてみると「なるほど、こういうこともできるんだな」と納得することができるシミュレーションです。
しかしその一方で、統合失調症という実在の疾病を扱っているため、この作品について言及するのは通常より「人を傷つけやすい」行為である可能性が高くなっています。
私個人としては、実況動画や配信などでこの作品をプレイするのはあまり推奨しません。
しかし実際に批評などをするかどうかは別として、プレイしてみてその上でいろいろと考えてみるのは、非常に有意義なのではないかとも思います。もしご興味があって未プレイでしたら、ダウンロードしてプレイしてみてはいかがでしょうか?