キンコン西野氏の近大スピーチおよびそのニュース記事について

雑記

今朝のYahoo!ニュースで、こんなものがありました。

話題のキンコン西野氏による近大卒業式「時計」スピーチが孕む危うさ。問われる近大の良識(HARBOR BUSINESS Online) – Yahoo!ニュース
話題のキンコン西野氏による近大卒業式「時計」スピーチが孕む危うさ。問われる近大の良識 | ハーバービジネスオンライン

キングコングの西野さんですね。芸人として有名ですが、ネットでは「炎上する人」としてのほうが有名でしょう。

前提:筆者の立場

まず前提として、私はキングコングの西野さんのことを嫌いではありません。スピーチでも話題に上りましたが、西野さんの相方は現在YouTubeで「カジサック」として活動していらっしゃいます。そのチャンネルだけでなく「毎週キングコング」というキングコング2人でトークをするチャンネルがありますが、両方とも登録しており興味がある動画があれば見ています。

ネットでは西野さんのことを毛嫌いする人が多いのですが、私はそういった立場でないことを予め表明しておきます。かといって彼らの行為をすべて肯定するほど信奉しているわけでもありません。「おもしろい」と感じるところがあるので、その部分を気に入っているという次第です。

ニュースの概要

今回のニュースの概要を見ていきましょう。

今回の西野さんのスピーチでは、「失敗なんかしないから、挑戦してください」と仰っています。これは、少し前に話題となった上野千鶴子氏による東大の入学式祝辞へのカウンターである可能性が高いでしょう。

平成31年度東京大学学部入学式 祝辞 | 東京大学

この祝辞では、このような発言がありました。

あなたたちはがんばれば報われる、と思ってここまで来たはずです。ですが、冒頭で不正入試に触れたとおり、がんばってもそれが公正に報われない社会があなたたちを待っています。そしてがんばったら報われるとあなたがたが思えることそのものが、あなたがたの努力の成果ではなく、環境のおかげだったこと忘れないようにしてください。あなたたちが今日「がんばったら報われる」と思えるのは、これまであなたたちの周囲の環境が、あなたたちを励まし、背を押し、手を持ってひきあげ、やりとげたことを評価してほめてくれたからこそです。世の中には、がんばっても報われないひと、がんばろうにもがんばれないひと、がんばりすぎて心と体をこわしたひと…たちがいます。がんばる前から、「しょせんおまえなんか」「どうせわたしなんて」とがんばる意欲をくじかれるひとたちもいます。

東大の入学式祝辞では「がんばっても報われないことがある」と語られ、今回の近代卒業式スピーチでは「がんばれば報われる」という旨の話をされます。これはカウンターでないとしても、西野さんは東大入学式祝辞を見聞きはしたのではないでしょうか。意識してかせずしてかはわかりませんが、おそらくは無関係ではないでしょう。

これに対して、該当のハーバービジネスオンラインの記事ではこう記されています。

「時計と人生は違う」

「このスピーチに感動するような人はマルチ商法に騙されるのではないか」

筆者の意見も、これらの批判と同じだ。

このニュースでは、3つの視点が混ざっているので、まずは整理しましょう。

  1. 上野千鶴子氏による東大入学式祝辞
  2. キングコング西野亮廣氏による近代卒業式スピーチ
  3. ハーバービジネスオンライン藤倉善郎氏による記事

このなかで私が一番賛同できないものがあるとするなら、3のハーバービジネスオンラインの記事です。1の灯台祝辞は社会人として「がんばって成功したとして、それは本人の努力のみだけでなく社会的な下地も無関係ではない」というのは理解できますし、2の西野さんによるスピーチの内容も芸人として特に問題があるとは感じられません。

今回の論旨は、ハーバービジネスオンラインの記事の主旨にのっとって「近大卒業式スピーチはマルチ商法の技法か?」という着眼点から考えていきましょう。

まず、3のハーバービジネスオンラインの記事ではネット受けを意識した「キンコン西野叩き」の臭いを感じました。この記事はハーバービジネスオンラインのなかでは3つに分割されていますが、2の西野さんのスピーチに細かく触れているのは1ページめのみで、2ページめはマルチ商法・自己啓発セミナーの解説、3ページめはこのようなスピーチを許した近大への疑義を示しています。

記事の執筆者である藤倉善郎氏は自己啓発セミナーやカルト宗教に関する問題を扱い、ご自身のサイト「やや日刊カルト新聞」を運営してらっしゃいます。そうした活動をしていれば、たしかに今回の西野さんのスピーチには違和感が強かったのかもしれません。もしかすると今回のスピーチについてではなく、以前から西野さん本人にそうしたものを感じていたのかもしれません。

この3の記事の内容について、完全に反対するわけではありません。つまり西野さんの活動に「自己啓発セミナー・マルチ商法まがいの臭い」を感じることも確かなのです。あくまで私の個人的見解であることは、明言しておきましょう。あえてつけくわえるなら、カジサックチャンネルで相方の梶原さんと共演された「オリエンタルラジオ中田敦彦」さんにも同じ臭いを感じています。

西野さんのスピーチ

この西野さんの「マルチ商法臭さ」について細かく語る以上は、2の近大卒業式のスピーチおよびキングコング西野さんの話に移ったほうがいいでしょう。私は今回のハーバービジネスオンラインの記事でこのスピーチのことを知ったので、ここでこの西野さんのスピーチの内容についても考えたいと思います。
近畿大学のYouTubeチャンネルの動画を見て、いくつか気になった点があったのでまず列挙しましょう。

  • マクラの短さ
  • 拍手の強要
    • 誤った二分法
  • 絵本「えんとつ町のプペル」の紹介
  • 相方・梶原雄太ならびにカジサックの紹介
  • NON STYLE・石田明とのUSJでのエピソード
  • 「それっぽいいい話」
    • 「未来を変えることはできないけど過去を変えることはできる」
    • 「理論上、失敗なんて世の中に存在しない」
    • 「失敗なんかしないから、挑戦してください」
    • 「チックタック~約束の時計台~」の宣伝
    • 時計の長針と短信の話
    • 「鐘が鳴る前は報われない時間がある」
    • 人生における11時代
    • BGMによる演出
  • その場しのぎ?

ひとつずつ順番に見ていきましょう。

マクラの短さ

まずは1の「マクラの短さ」です。
西野さんは冒頭にて小走りで登場し、「すみません突然出てきて。まあ……社会に出るわけですね、みなさん。で、社会に出たら……」と急に話を始めます。物事には段取りがあって、落語や漫談、記事やブログでも「冒頭」があります。特に落語ではこの部分を「マクラ(枕)」と呼び、俗には「ツカミ(掴み)」ともいわれます。ニュース記事やブログ記事ではタイトルが大事だとされますし、男女の出会いも第一印象が大事であるように、物事の「最初の部分」はとても大事です。
このスピーチではまず、このマクラの部分がかなり疎かです。
他の芸人の方の漫才でも「その場の雰囲気にそぐわないありきたりの始まり方」や「その漫才が行われる状況をまったく無視したブツ切りの開始」をされると、「ああ、その場に合わせる技量がまだないのかわからないけど、練習して覚えてきた通りのことをしてるんだな」と感じることがあります。

このスピーチに関していえば、時間がなかった可能性があります。このスピーチの前の卒業式の進行を知らないので詳しくはわかりませんが、時間がおしていて西野さんがゆっくりスピーチをする余裕がなかったのかもしれません(関連動画で平成29年の又吉さんのスピーチがありましたが、そちらはゆったりと話されていました)。
このマクラの短さは、西野さんの技量のなさというよりも、式の進行の関係上そうなってしまったのではないかと私は感じました。
この点に関して、特に不満点はありません。

拍手の強要

話し始めると、西野さんは「コミュニケーションの本質とは」「空気を読むこと」「オープニング映像」について語りながら、会場の卒業生に向かってある提案をします。

誤った二分法

西野さんはこう語ります。

卒業式はもう終わるんです。このまま。あと10分か15分ほどで、皆さんの近大の時間が終わっちゃう。この雰囲気のまましれーっと終わっちゃっていいのか? っていう問題がありますよね?
皆さんには2つの選択肢がある。パラパラの拍手でキングコング西野を迎え入れるのか、それとも、全員立ち上がって男は野太い声を出し、女は黄色い声援を出し、指笛鳴らせるヤツは鳴らして大いに盛り上がって、もう一回ゲストスピーカーを迎え入れるのか、2つの選択肢がある。僕はどちらでもいいです、僕は。皆さんの人生だから好きなようにしてください。このまましれーっと卒業式を終えても僕は問題ない

誤った二分法」とは、間違った考え方を指します。誤謬のひとつともされ、非論理的な手法です。
ときに意図的に使用され、詭弁として人を騙す際にも使用されます。

誤った二分法では、二つの選択肢が提示されます。しかし論理的にはこの二つの選択肢以外にも選べるものがあるのに、二つしか提示されなかったり認識できなかったりすることが問題とされます。
たとえば「人間には男と女しかいない」という命題は、LGBTを無視した意見です。社会的なジェンダーという役割を意識すれば、それが限定された思考であることにすぐ気づきます。

あえて強い言葉で批判するなら、この拍手をするかしないかの選択肢は「脅迫」です。武器は「しれ~っと」で、人質は「卒業式」です。そして与えられた選択肢は、「キングコング西野を盛大に受け入れるか、否か」です。
西野さんは「この卒業式がつまらないものとして終わるが、それでいいのか? そうしたくないなら拍手をせよ」と脅しているようなものなのです。

個人的に述べると、この手法は好きではありません。手段として汚いからです。
同様の語り方をするなら、卒業する方に「君たちの人生は成功か失敗かのどちらかだ」「負け犬になったらおしまいだ(負け犬は単なるレッテルに過ぎず、印象を覆すことは不可能ではない)」というようなものです。中間的な選択肢が用意されていません。

特にこの箇所は、近大卒業生に向けられたものではなく、「キングコング西野」としての立場を意識したものでしょう。動画として残されることを事前に知っていたのかもしれませんし、単にその場を盛り上げるつもりだったのかもしれません。
ひょっとすると、日頃からノリが悪いと感じればこういう手段をとっているのかもしれません。実際のところ、こうした手法は必ず成功するわけではなく、白けてしまっている人は参加しないでしょう。当然ながらオーディエンスは「会場を去る」「ブーイングをする」という選択肢をとることもできます。西野さんにとってもリスクがあったわけです。

そうはいっても若い人たちが集まる卒業式ですので、これに関して「いい挑戦じゃないか」と応えるように乗せられて式場は拍手をしてしまいます。
この点に関しては、「流されることがよくない場合もある」という誰にでもできる浅はかな訓戒を示しておくに留めましょう。

3.  絵本「えんとつ町のプペル」の紹介

作られた拍手喝采の後、西野さんは自著「えんとつ町のプペル」の話を始めます。映画化についても語ります。
この後には「ディズニーアニメに動員数で勝つ」という目標も掲げます。

自分の作品を売る立場の人間が、自著を紹介するのは問題ないでしょう。卒業式で営業をすることの意地汚さは感じます。しかしアフィリエイトブログを運営する私がいっても、大した真実味はありません。

そして無理だろうと誰もが思う「ディズニーに勝つ」という目標は、それを実現できるかどうかではなく「語る」こと自体に意義があるものだと思われます。すなわち「本当に実現できるかどうか」「自分が実現したい目標かどうか」「そこを目指すかどうか」ではなく、「私はそこを目標としています。いかがですか?」とアピールする姿勢が大事だということです。

これは、芸人・絵本作家としてより、やや怪しい実業家・サロン運営者としての一面なのかもしれません。

相方・梶原雄太ならびにカジサックの紹介

それに続いて、自分のことを説明して「好感度が非常に低い」と自虐を打ち、そして相方の梶原雄太さんのことを紹介されます。多くの人がご存知のように、梶原さんはYouTuberカジサックとして活動されています。私もカジサックさんの芸人仲間と語る動画はよく拝見しています。

これも絵本のときと同様、営業活動のひとつとして相方の名前を宣伝したのでしょう。特にYouTuberの活動は若い方たちによく響くということを聞きますので、大学生(卒業生ですが)を相手にするのは効果的なのかもしれません。

スピーチでは「ここでカジサックの悪口言ってもいいですか?」と語ります。悪口だと明言していますが、芸人の方が同業者のエピソードを語るときの常として、やはりこれは「おいしい」と思って語ったことにほぼ間違いはないでしょう。誰にとって「おいしい」かというと、キングコングのお二方にとってでしょう。

NON STYLE・石田明とのUSJでのエピソード

そして同期は誰かという接続を挟んで、「NON STYLEもそう(同期)ですね。仲がいいのはNON STYLEの石田くん。石田の悪口を言います」と続けます。

ここではそのNON STYLE・石田さんとのUSJでのエピソードを語りますが、おそらく鉄板ネタなのでしょう、以前に聞いたことがある話です。

どこで見聞きしたのかと思い返すと、毎週キングコングのチャンネルでアップロードされている動画でした。

この2つ、相方・梶原さんとNON STYLE石田さんの話は、いわゆる「ネタ」でしょう。卒業式のスピーチとして妥当な内容ではありませんが、芸人を呼んだ以上こういう小話があったとしてもしかたがありません。

「それっぽいいい話」

そのUSJでのエピソードが終わった後、〆に入るため西野さんは「私は気持ちがいいのでこのまま喋ってたいけど先生方に怒られそうだから、それっぽいいい話をして終わります」と話します。

多くの人はこの話の内容について興味を感じていることでしょう。私はもう「それっぽい」でナニカガチガウと感じてしまいました。有名な芸人の方であれば大学のイベントには学祭など何度も訪れているでしょうし、サロンを経営している西野さんであればスピーチの何たるかはご存知なのでしょう。これが落語だったら、「これからそれっぽい落ちを話します」といったところでしょうか。

以前とある芸人さんが、モノマネのコロッケさんについて語っていたことを思い出します。曰く、「職人として仕事を遂行するコロッケさんは、水商売臭・ショーパブ臭がする」「コロッケさんが『すごい練習してきたな』というネタをするときや、営業でお金をもらう分だけ笑わせてるところじゃなくて、『なんか今日コロッケさんブッ壊れてんじゃねーの?』っていうときのあの感じが好き」ということでした。

その点からすると、このスピーチは用意してきたネタを披露したのでしょう。原稿は用意していなくても、芸人として暗記してきたネタが引き出しとして存在して、それを呼んでもらった分だけちゃんと見せた、という印象があります。

「未来を変えることはできないけど過去を変えることはできる」

さて、この〆である「それっぽいいい話」を細かく見ていきましょう。

ここではまず「未来を変えることはできない」「『10年後の未来を変えてください』って言っても難しいですよね」「未来を変えることはできないけど過去を変えることはできる」と語ります。

これは論理的におかしいですよね? 通俗的には「変えられないのは過去」です。「変えられるのは未来」です。
西野さんの論理では、以下のようになるそうです。

例えば卒業式の登場に失敗した過去だとか、好感度が低かった過去だとか、相方がアホだった過去だとか、友達と一緒に恥をかいてしまった過去だとか、今ネタにすることでネガティブだった過去が輝きを増して、『登場に失敗して良かった』『好感度が低くて良かった』『相方がアホで良かった』『石田くんがドジしてくれて良かったな』って思える

これは「過去を変えている」のではなく、「現在もっている『過去』への認識を変えている」だけです。
過去を変えるという言葉が意味するとすれば、「SFの世界のように過去の出来事を改変する」か西野さんの仰るように「過去への認識を変える」ことでしょう。どうせ前者のSF的な過去改変はここで語るだけ無意味ですので、後者の「認識を変える」ことについて考えてみましょう。

これが「本人の過去の記憶を、本人が勝手に改竄する」だけなら構いません。友人や知り合いとの会話が噛み合わなくなる可能性が大きいのですが、「本人の勝手」の範疇内でしょう。
問題があるとすれば、変えようとする「過去」の認識が世間一般に広く知られている過去で、本人のなかだけでなく「世間の人々に広く信じさせよう」と試みる場合です。端的にいえば、「歴史修正主義」です。

歴史修正主義は、いわば「自分の都合のいいように過去の認識を変える」ことを指します。ハッキリいってこれは迷惑でしかありません。歴史という共通の認識が新しい学術的発見によりアップデートされることはありますし、そうした共通の認識が必ずしも正しくないことはしかたありません。しかしその不確実性を突いて勝手に改竄されるとすれば、百害あって一利なしです。そういう行為をとる人にとっては「利」があるからそうするのでしょうが、巻き込まれる一般の人たち私たちにとってはただの迷惑です。

この西野さんの「過去は換えられる」という発言がすなわち歴史修正主義に繋がるわけではありませんが、どうしてこのような論理を語ったのかは理解できません。

「失敗なんかしないから、挑戦してください」

そしてその話に続けて、こう語ります。

失敗はその瞬間に止まってしまうから失敗なのであって、失敗を受け入れてアップデートして試行錯誤して、成功するまで続けてしまえばあの時の失敗が必要であったことを知るわけですね。つまり理論上、失敗なんて世の中に存在しないって話です。
このことを受けて、僕が皆さんに贈りたい言葉は一つだけです。『失敗なんかしないから、挑戦してください』

この手の論理は、気をつけなくてはいけません。
ネットではやはり、和民の創業者である渡邉美樹氏の発言が有名でしょう。

『無理』というのはですね、嘘吐きの言葉なんです。途中で止めてしまうから無理になるんです

『それは無理です』って最近の若い人達は言いますけど、たとえ無理なことだろうと、鼻血を出そうがブッ倒れようが、無理やりにでも一週間やらせれば、それは無理じゃなくなるんです

渡邉美樹氏が新入社員に「無理だと感じた時は無理と言っていい」とメッセージ 「無理というのは嘘つきの言葉」から一転 – ニコニコニュース

こうした論理は、自分に課すポジティブな枷としては非常に有効です。つまり「継続は力なり」の文脈で、諦めずに続けていれば実るときが訪れるという意味合いで自分に向けて使うのは、ほとんど問題がありません。
しかしこの論理が強い束縛として効果を発揮してしまうのは、強い立場の人から弱い立場の人に向かって強制的に投げかけられたときです。

経営者が従業員に対して「無理だというから無理になる。文句をいわずにやれ」と頭ごなしに命令することで、通常は「無理なら一旦諦めて別の方法を探す」と選べるはずの逃げ道を塞いで、どんなに疲弊してもどんなに嫌になっても強制されることになりかねません。この論理が間違いだとはいいませんが、少なくとも「他人に向けて」「強制する」ことで非常に危険な呪いになる可能性があります。
そしてなまじそれで成功してしまえば、経営者は無理を何度も通そうとしかねません。「無理が通れば道理が引っ込む」のまさに典型でしょう。

先ほども述べたように、登場のしかたからスピーチの時間が短縮されてしまっていた可能性があります。しかしこうした論理を語るならば、危険性についても語っておかないと手落ちです。

たとえば有名な法則に、「メラビアンの法則」というものがあります。これはメラビアンという心理学者が行った実験から、コミュニケーションをとるときに「言語情報:聴覚情報:視覚情報」が「7:38:55」の割合で重視されると導かれた法則です。
ここから「人は見た目が最も重要」という結論を導き、その根拠としてメラビアンの法則を示す手法が多くなりました。

メラビアンの法則を紹介する場合は、まずそのような誤解があったことを前提として述べておくのが、紹介する人のある種の義務でしょう。それを怠れば、やはり手落ちといわざるをえません。

もちろんこうした言説にも間違いの可能性は潜んでいますし、前提として注意を促したとして不十分だということもあるでしょう。しかしそれを述べ語るだけの余白を用意しておかないなら、中途半端となってしまうのではないでしょうか。

「チックタック~約束の時計台~」の宣伝

その後は、また絵本の話をもちだします。
これは映画化している絵本・相方・NON STYLE石田さんに関する話と同様、自分の商品を販売する人としての営業活動の一環でしょう。
アフィリエイトブログを運営する身として、プロの話者でもこうしたあからさまな方法をとるしかないというのは、少し悲しいものです。学ぶものが少ないので。

時計の長針と短針の話

そしてその新作の絵本をきっかけとして、時計の話に移ります。

時計ってスゴく面白くて、長針と短針があって、あいつらは1時間に1回重なるんです。1時5分で重なって、2時10分ぐらいで重なって、3時15分ぐらいで重なって、長針が追い抜いたと思ったらまた4時何分かで重なる。毎時1回は重なるように出来てるんですけど、11時台だけは重ならないの。11時台だけは短針が先に逃げ切っちゃって、2つの針って重ならないんですよ。次に2つの針が重なるのは12時。鐘が鳴るときですね。

ここも今回の争点のひとつですね。論理として怪しい。

時計を人生に見立てていますが、それを聞く身としては「長針と短針が重なったらどうなの?」ということでしょう。おそらく西野さんは暗に「長針と短針が重なる=成功」といった筋立てをしたいのかもしれませんが、それは通りません。なぜなら時計は毎日毎時毎分毎秒(ある程度)正確に動きますが、人生は正確に動くことなど稀です。
12時に長針と短針が重なっていて、1時台に重なり2時台にまた重なり3時台にまたまた重なり……そして11時台は重なることなく、12時になるとまた重なる。この回数は変動しません。
だからといって別に人生で一定期間に成功する数が決定されているわけではありません。そんな機械的に成功はしませんし、定期的に実現される成功など価値は薄いでしょう。

これは譬えとして、機械的な時計と人間性の本質である人生とを並べて「時計≒人生」とする中途半端さ、そしてそ譬えの主軸として「長針と短針が重なる≒成功」となぞらえる意味不明さに由来するのでしょう。

この点をわざと悪くとらえれば、「人間性を捨てて機械になれば君も幸せになれる」「努力なんてしなくても時間が経てば長針と短針が重なるように自動的に成功できる」「機械に組み込まれなければ歯車として落ちこぼれになる(誤った二分法とのコンボ)」という間違った論理で人を誤らせることができます。

このような論理をスピーチのオチに扱うのは、さすがにしゃべりを商売とする以上、かなり厳しいのではないでしょうか。

「鐘が鳴る前は報われない時間がある」

時計の話のくくりとして、西野さんは「鐘が鳴る前は報われない時間がある」と仰います。

これは時計の比喩からも繋がるのですが、「鐘」は成功の象徴でしょうか? 鐘は「警鐘」という言葉にもあるように、危険を知らせるための道具としても使用されます。その名残が現在のアラームでしょう。「早く起きないと遅刻するぞ」「約束の待ち合わせの時間がもうすぐだぞ」「災害が起こったから早く逃げなさい」といった意味がアラームにはあります。

西野さんは「人生における11時台」と印象づけるように続けます。
これは「針が重なる=成功」とすればポジティブな印象づけとなりますが、12時ちょうどの鐘をアラームに見立てると「嵐の前の静けさ」に過ぎません。

少年マンガでは敵役が支配的な力をもってして彼らなりの論理を振り回します。それが絶対的でないことを突きつけて彼らの思想ごと主人公が敵を打ち砕くのが、ひとつの醍醐味です。
この時計の譬えは、その敵役が振り回すようなあやふやな論理です。絵本のなかでどのように時計が扱われるのか知りませんが、それをただただポジティブに人生論として組み立てるならば、砂上の楼閣である可能性がそうとう高いのではないでしょうか。

他にも人生に譬えられるもののひとつとして、水というものは、いろいろな譬えに使われます。細かな水分子にはじまり、水流、川、海など、そこから様々な人が感じとったものがあります。
「水の低きに就くがごとし」といいます。水は高いところから低いところへ流れるように、逆らうことの難しい奔流もあるといいます。
また水は雨として降り、山から川として流れ海となり、雲となってまた雨になります。現在の日本ではブラック企業という存在が認知されて久しいものですが、そうした水の流転のように「子が成長して親となりまた子を産む」というサイクルが実現しなければ、やはり国家としては難しいでしょう。

そうした「水」のように人生に譬えられるツールを発見した、として西野さんは時計に価値を見出したのかもしれません。しかしこのスピーチを聞く限りでは、魅力はありません。そうとなれば、せっかくの卒業式のスピーチのオチに絵本の広告を紐づけたとしても、あまり効果的ではなかったのではないでしょうか。

BGMによる演出

そしてこれは西野さん本人のスピーチとは関係ないのですが、動画のBGMが気にかかりました。
西野さんが「それっぽいいい話」をし始めると、動画に「それっぽいいいBGM」が流れ始めます。これがバラエティ番組なら勝手にすればいいというだけのことなのですが、大学のチャンネルでわざわざこのような演出をしなくてはいけないものなのでしょうか? いえ、まあそれも勝手にすればいいということなのかもしれません。

これは逆説的にとらえれば、スピーチの内容がイマイチだったので演出しなければしまらないという判断だったのかもしれない、と悪く考えることもできます。

関連動画として29年度のピース又吉さんのスピーチもあったので流し見しましたが、BGMの演出は特にありませんでした。定例の演出なのではなく、その年によって編集する方が違うのかもしれませんね。

その場しのぎ?

最初、動画を通して見たときは、東大入学式祝辞の整然としたものと比較してしまい、西野さんのスピーチがその場しのぎのものだったのではないかと訝りました。
しかしおそらく、西野さんは事前にいろいろ考えてきてはいたのでしょう。どのような構成で語るか、どのようなネタを挟むか、どのように宣伝を挟むか。

その場しのぎかもしれないと感じたのは、おそらく誤りであろうと今は判断します。しかし芸人としてネタや広告を挟むことに対して一般人として私は納得しましたが、卒業式のスピーチとして見たときにそれが必要だったかというと、不必要だろうとも考えます。

しかしそれは芸人を呼んだ近畿大学側の采配というものもあるでしょう。呼ばれて仕事と受けたなら、適不適は別として応えなければいけません。その点に関しては、依頼された仕事をまっとうした西野さんは別にさほど悪くはないと判断します。

ハーバービジネスオンラインの記事

さて、ハーバービジネスオンラインの記事に話に戻りましょう。
この記事の語り口で気になったのは、「自己啓発セミナー」「マルチ商法」という言葉を用いるだけ用いて、「これらと共通した思想に基づくスピーチをしたからといって、西野氏が自己啓発セミナーやマルチ商法の関係者とは限らない」と逃げ道を作っている点です。つまり「私は明確には批判をしていませんよ」という建前なのでしょう。
西野さんのスピーチが「それっぽいいい話」なのだとしたら、この記事は「それっぽい批判みたいなそうじゃない記事」なのでしょう(「辛そうで辛くない少し辛いラー油」という商品を思い出しました)。

この記事に関しては、「つついておきたいけど火の粉はかぶりたくない日和見」感を(勝手に)嗅ぎ取ってしまいました。紹介記事としてはやや刺々しく、批判記事としてはなよなよしている、というふうに。

そうはいってもこの記事に対しても躍起になることなどないのかもしれません。今の私のように、気になったところとつついてみた、というだけのことなのかもしれません。

どうでもいい話

私個人の見解としては、近大が芸人をスピーチに呼んだ、芸人は仕事をした、それだけのことなのだろうと理解しています。そしてその芸人のことを多くの人が嫌っていて、信用していなくて、疑いの目を向けていて、おそらくこれからもその眼差しは向けられていくのだろう、と。
私はキングコング西野さんのことを嫌いではありません。近大に恨みもありません。ただ別にどちらも信用していません。

芸人としてしゃべりがおもしろいな、と思いながら毎週キングコングの動画をたまに見ていますが、そう思いながらも私は西野さんを信用してはいけないタイプの人なのだと認識しています。叩かれてもへこたれない精神は素晴らしいと思いますが、たとえ炎上してもそれを糧にしてやろうという気概が常に感じられるように、利用できるものは利用する人でしょう。だからこそアンチに対してわざと癪に障るような発言をして煽ったりもするのでしょう。

私はそういう人が好きではありません。芸人としておもしろいとしても、人として好きにはなれません。しかし多くの人がしているように叩くほどではないと考えています。あんまり余計なことしなければいいのに、とは感じますが、そういう人が世のなかに存在してもいいでしょう(もちろん実際にマルチ商法の類をしていれば話は別ですが)。

ただ私はキングコング西野亮廣という人のことを、目くじらを立てるほど嫌ってはいません(警戒はしていますが)。その立場からすると、謎論理を謎論理として論うのは構わないのですが、芸人に対してなにを求めているのかわからなくなってくるのです。

最近でもなにか事があってそれにダウンタウン松本人志さんが発言する度にネットニュースになります。私は芸人の方々に人格を求めてはいません。彼らはおもしろいということで価値があり、求められているはずなのではないでしょうか。
そう考えると近大のスピーチに芸人を呼ぶという采配には首を傾げたくもなります。しかしそれを見て怒る側としても芸人以上のなにかを求めてしまってはいないか、と注意する向きがあってもいいのではないでしょうか。

いずれにせよ、おそらくこのスピーチの話は、すぐに忘れられる類のニュースだと感じています。さほど社会的意義が高いわけでもなく、炎上する燃料が満載されていたわけでもありません。
私としてはYahoo!ニュースを読んだときの「奥歯にもののはさまったような」半端な物言いがなんだか納得できませんでした。

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